2013-01-02 18:08 |
カテゴリ:学園
大村はま(1906年-2005年)52年間にわたって国語教育の可能性を真摯な実践をもって切り拓いた教師。戦後は東京都内の中学校で教鞭を取り、大村単元学習として知られる授業実践を生みだした。1963年には広島大学主催「ペスタロッチー賞」、1978年には日本教育連合会賞を受賞。また定年退職後も「大村はま国語教室の会」を結成し、日本の国語教育の向上に勤めた。
苅谷夏子(1956年−)東京都大田区立石川台中学校で、大村はまに教わる。東京大学文学部卒業。大村はまの晩年、「大村はま国語教室の会」事務局長として全国の講演会や研究会に付き添い続けた。「教えることの復権」 (大村はま、苅谷剛彦と共著・ちくま新書) 「優劣のかなたに―大村はま60のことば」(筑摩書房)などの著書がある。
「うん。でもね、一つだけ、はっきり言えることがあるんだよ。先生はね、ぼくを大事にしてくれた。本当に、大事にしてくれた。」
中学校で厄介な存在として扱われていた生徒が、皆が熱心に作文に取り組む中で一人だけ作文に取りかかろうとしない。先生が、足音も立てずに近寄って、彼の原稿用紙に書き出しの文を書いて言う。
「続きを書いてごらん」
ついに書き始めた生徒に、頃合いを見計らって、先生はさらに数行書く。その不思議な共同作業につられて作文を完成させた生徒は、いつしか周囲からも一目置かれる「書く人」に育っていく。
それから50年後、この本の著者苅谷夏子さんがこの有名なエピソードを生徒本人に聞くのだが、当の本人は覚えていない。覚えてはいないが、満足げな口調で「本当に、大事にしてくれた」と語るのである。
私は、この作文指導の一つのきっかけとしてのエピソードにも惹かれるが、同時に宮沢賢治の教え子たちが「先生は自分を特によく見てくれた」と口々に語るというエピソードを思い出す。そして、この宮沢賢治の教え子たちの話は、まことに勝手ではあるが私自身の個人的な思い出にもつながって行く。これは教師が誰かを特別可愛がったというレベルの話ではない。実際にそういうレベルの教師に対しては何のエピソードも残らないし、思い出すこともないだろう。思い出す価値がないのである。
このエピソードの背景には、次のようなことがある。
「目の前に四十人の子どもがいたとき、その一人ひとりが、本人にしてみれば世界に一人の主役であること。かけがえのない「大事な大事なわたし」を持っていること。このことを心の底から実感し、集団として手際よく束ねられたらそれでいいという考え方に陥らないことは、非常に難しい。そんな中で、大村はまはあくまで「一人ひとり」を仕事の基本としたが、実を言えば、「一人ひとり」という以外の人の見方をそもそも知らないのだ、という言い方を自分でしたことがあった。」
「一人ひとり」という以外の人の見方を知らない、あるいは「一人ひとり」という以外の人の見方をしないところからのみ、本当に「大事にされた」という実感は多く生じてくるものなのだと思う。大村はまの指導から学ばせてもらおうとする時、周囲から垣間みた展開の見事さや指導の的確さ、生徒たちのひたむきさに感嘆する前に、その前提となる「一人ひとり」という見方そのものに注目する必要があると考えさせられる。
この評伝は大村はまの祖父母の時代(幕末〜明治)まで遡ってその気質のルーツを探すところから始まり、99歳を目前にした大村はまの生涯の終焉で終わる。大村はま本人とその家族、そして学校の移り変わりに軸をおいた日本近現代史でもあり、学校現場における思潮の転変の中で、一人の教師がどこまで真摯に教育活動に向き合えるのかという可能性を丹念にたどった「教育の可能性」の書でもある。教師のあり方の、はるかな「頂き」とはどんなものであるかを見せてくれる。それは国語という教科に限らない。中学や高校といった学校の種類も関係ない。
その姿は「奇跡の教師」であると私も思う。その時代その時代に、読むことや聞くこと書くことに対して、あれほどまでに崇高な価値を生徒たちに実感させるその姿は、私等からすると「奇跡」としか言いようがない。「奇跡」は仰ぎ見るべきだと思う。だが、それは生身の人が実現した事実であって、彼岸の事柄ではない。「あれは奇跡だよ」という考えが、「あれは普通では出来ないよ」という結論であっては情けない。
実を言えば、学校という場所はそういう弱い言葉が通じやすいし、一般的にその弱さに流れてしまう場所でもあると思う。そこに、大村はま自身が教員人生を通じて悩まされる学校の性質のようなものがある。それは「集団として手際よく束ねられたらそれでいいという考え方」を教員自身が持ち、校長を含めた管理職の頭の中さえそういう構造になりがちな世界なのである。それは私立も公立も関係ない。
大村はまは、優れた教育者たちがいる環境の中で育ち、同様の感覚を持つ先輩教師や校長のもとで自分の指導の力を研ぎ澄ますことを通じて、妥協のない、甘さを許さない教育活動を創り上げた。それが「奇跡」のレベルだったのだと思う。
教科がどうあれ、どんな分掌であれ、学校に関係する者ならそのレベルを目指そうとする道は誰にでも開かれている。
大村はまが最後まで改訂を繰り返した詩がある。一教師が到達した境地を示す詩であり、もし存命なら、さらに手を入れ続けたに違いない詩である。
この最後の詩「優劣のかなたに」にいたった時、私は一気に視界が広がるのを感じた。大村はまが、その生涯で何を追い求めていたのか、私なりに少し理解できたような気がしたのである。
これもまた、大村はまが私たちに残してくれた授業の一つなのかもしれない。
(金子 暁)
苅谷夏子(1956年−)東京都大田区立石川台中学校で、大村はまに教わる。東京大学文学部卒業。大村はまの晩年、「大村はま国語教室の会」事務局長として全国の講演会や研究会に付き添い続けた。「教えることの復権」 (大村はま、苅谷剛彦と共著・ちくま新書) 「優劣のかなたに―大村はま60のことば」(筑摩書房)などの著書がある。
「うん。でもね、一つだけ、はっきり言えることがあるんだよ。先生はね、ぼくを大事にしてくれた。本当に、大事にしてくれた。」
中学校で厄介な存在として扱われていた生徒が、皆が熱心に作文に取り組む中で一人だけ作文に取りかかろうとしない。先生が、足音も立てずに近寄って、彼の原稿用紙に書き出しの文を書いて言う。
「続きを書いてごらん」
ついに書き始めた生徒に、頃合いを見計らって、先生はさらに数行書く。その不思議な共同作業につられて作文を完成させた生徒は、いつしか周囲からも一目置かれる「書く人」に育っていく。
それから50年後、この本の著者苅谷夏子さんがこの有名なエピソードを生徒本人に聞くのだが、当の本人は覚えていない。覚えてはいないが、満足げな口調で「本当に、大事にしてくれた」と語るのである。
私は、この作文指導の一つのきっかけとしてのエピソードにも惹かれるが、同時に宮沢賢治の教え子たちが「先生は自分を特によく見てくれた」と口々に語るというエピソードを思い出す。そして、この宮沢賢治の教え子たちの話は、まことに勝手ではあるが私自身の個人的な思い出にもつながって行く。これは教師が誰かを特別可愛がったというレベルの話ではない。実際にそういうレベルの教師に対しては何のエピソードも残らないし、思い出すこともないだろう。思い出す価値がないのである。
このエピソードの背景には、次のようなことがある。
「目の前に四十人の子どもがいたとき、その一人ひとりが、本人にしてみれば世界に一人の主役であること。かけがえのない「大事な大事なわたし」を持っていること。このことを心の底から実感し、集団として手際よく束ねられたらそれでいいという考え方に陥らないことは、非常に難しい。そんな中で、大村はまはあくまで「一人ひとり」を仕事の基本としたが、実を言えば、「一人ひとり」という以外の人の見方をそもそも知らないのだ、という言い方を自分でしたことがあった。」
「一人ひとり」という以外の人の見方を知らない、あるいは「一人ひとり」という以外の人の見方をしないところからのみ、本当に「大事にされた」という実感は多く生じてくるものなのだと思う。大村はまの指導から学ばせてもらおうとする時、周囲から垣間みた展開の見事さや指導の的確さ、生徒たちのひたむきさに感嘆する前に、その前提となる「一人ひとり」という見方そのものに注目する必要があると考えさせられる。
この評伝は大村はまの祖父母の時代(幕末〜明治)まで遡ってその気質のルーツを探すところから始まり、99歳を目前にした大村はまの生涯の終焉で終わる。大村はま本人とその家族、そして学校の移り変わりに軸をおいた日本近現代史でもあり、学校現場における思潮の転変の中で、一人の教師がどこまで真摯に教育活動に向き合えるのかという可能性を丹念にたどった「教育の可能性」の書でもある。教師のあり方の、はるかな「頂き」とはどんなものであるかを見せてくれる。それは国語という教科に限らない。中学や高校といった学校の種類も関係ない。
その姿は「奇跡の教師」であると私も思う。その時代その時代に、読むことや聞くこと書くことに対して、あれほどまでに崇高な価値を生徒たちに実感させるその姿は、私等からすると「奇跡」としか言いようがない。「奇跡」は仰ぎ見るべきだと思う。だが、それは生身の人が実現した事実であって、彼岸の事柄ではない。「あれは奇跡だよ」という考えが、「あれは普通では出来ないよ」という結論であっては情けない。
実を言えば、学校という場所はそういう弱い言葉が通じやすいし、一般的にその弱さに流れてしまう場所でもあると思う。そこに、大村はま自身が教員人生を通じて悩まされる学校の性質のようなものがある。それは「集団として手際よく束ねられたらそれでいいという考え方」を教員自身が持ち、校長を含めた管理職の頭の中さえそういう構造になりがちな世界なのである。それは私立も公立も関係ない。
大村はまは、優れた教育者たちがいる環境の中で育ち、同様の感覚を持つ先輩教師や校長のもとで自分の指導の力を研ぎ澄ますことを通じて、妥協のない、甘さを許さない教育活動を創り上げた。それが「奇跡」のレベルだったのだと思う。
教科がどうあれ、どんな分掌であれ、学校に関係する者ならそのレベルを目指そうとする道は誰にでも開かれている。
大村はまが最後まで改訂を繰り返した詩がある。一教師が到達した境地を示す詩であり、もし存命なら、さらに手を入れ続けたに違いない詩である。
この最後の詩「優劣のかなたに」にいたった時、私は一気に視界が広がるのを感じた。大村はまが、その生涯で何を追い求めていたのか、私なりに少し理解できたような気がしたのである。
これもまた、大村はまが私たちに残してくれた授業の一つなのかもしれない。
(金子 暁)
![]() | 評伝 大村はま ことばを育て 人を育て (単行本) (2010/08/02) 苅谷 夏子 |
2012-12-10 10:57 |
カテゴリ:学園
蓮池 薫(1957年9月29日-)新潟県柏崎市出身。1978年7月31日、中央大学法学部3年在学中に、夏休みで実家に帰省していたところを当時交際していた女性とともに、新潟県柏崎市の海岸で北朝鮮の工作員に拉致され、24年間、北朝鮮での生活を余儀なくされる。2002年10月15日帰国後、新潟産業大学で韓国語の非常勤講師・嘱託職員として勤務するかたわら、2004年9月24日中央大学に復学。勉学に励みながら翻訳者としての仕事をこなし、2005年に初訳書『孤将』を刊行。2008年3月、中央大学法学部卒業。
「私は子供を育てることだけに神経を使い、力を尽くした」
それが、北朝鮮に拉致され、特殊な社会環境の中で24年間を生きた蓮池夫妻の「生きる目的」であった。自らの存在−日本から拉致されてきた日本人という存在—を、親しい人にも、たとえわが子たちにも明かすことが出来ない環境。「招待所」と呼ばれた施設の中で、社会的に活躍することも、仕事に生き甲斐を見つけることも許されない生活。永久に故郷には戻れないのではないかと思いながら生きる夫妻にとっては、これが残された「生きる目的」であった。
その一方で、蓮池氏はきわめて客観的に北朝鮮の人々の生の姿を描く。人々は、もはや社会主義が国民を結束させる理念ではあり得ない社会の中で、体制維持の政策や度重なる失政のもとで、国家規範とはまったく違った生き様を使い分けて生きる。90年代の食料危機以降、女性たちが男たちの代わりに市場に飛び出し「公然と党の指示を無視」するようになったのは「家族の命をつなぐ」ためであった。
立派な権威も理念も、ぎりぎりに追い込まれた人々の内から湧き起こる情念の前に色褪せる。「あの国」の変化は、そういった国民の情念の噴出に俟つしかないのかもしれない。
振り返って「この国」である。「拉致」という、人類に敵対する理不尽な行為を突きつけられた私たちの前にはさまざまな対応策がある。しかし、その対応策を本当に突き動かすのは、夫妻の胸にも、北朝鮮の女性たちの胸にも、私たちの胸にもある、人としての本能的な情念であることを忘れてはならないと思う。
※月刊新聞『モルゲン』2012年12月号掲載いただいた書評を転載。
<金子 暁>
「私は子供を育てることだけに神経を使い、力を尽くした」
それが、北朝鮮に拉致され、特殊な社会環境の中で24年間を生きた蓮池夫妻の「生きる目的」であった。自らの存在−日本から拉致されてきた日本人という存在—を、親しい人にも、たとえわが子たちにも明かすことが出来ない環境。「招待所」と呼ばれた施設の中で、社会的に活躍することも、仕事に生き甲斐を見つけることも許されない生活。永久に故郷には戻れないのではないかと思いながら生きる夫妻にとっては、これが残された「生きる目的」であった。
その一方で、蓮池氏はきわめて客観的に北朝鮮の人々の生の姿を描く。人々は、もはや社会主義が国民を結束させる理念ではあり得ない社会の中で、体制維持の政策や度重なる失政のもとで、国家規範とはまったく違った生き様を使い分けて生きる。90年代の食料危機以降、女性たちが男たちの代わりに市場に飛び出し「公然と党の指示を無視」するようになったのは「家族の命をつなぐ」ためであった。
立派な権威も理念も、ぎりぎりに追い込まれた人々の内から湧き起こる情念の前に色褪せる。「あの国」の変化は、そういった国民の情念の噴出に俟つしかないのかもしれない。
振り返って「この国」である。「拉致」という、人類に敵対する理不尽な行為を突きつけられた私たちの前にはさまざまな対応策がある。しかし、その対応策を本当に突き動かすのは、夫妻の胸にも、北朝鮮の女性たちの胸にも、私たちの胸にもある、人としての本能的な情念であることを忘れてはならないと思う。
※月刊新聞『モルゲン』2012年12月号掲載いただいた書評を転載。
<金子 暁>
![]() | 拉致と決断 (2012/10/15) 蓮池 薫 |
2010-01-30 11:28 |
カテゴリ:学園
三浦しをん 1976年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。2000年に書き下ろし長編小説『格闘する者に○』でデビュー。2005年『私が語りはじめた彼は』で山本周五郎賞候補、同年7月『むかしのはなし』で直木賞候補となり、06年『まほろ駅前多田便利軒』で第135回直木賞受賞。小説作品に『月魚』『私が語りはじめた彼は』『風が強く吹いている』『きみはポラリス』『仏果を得ず』『光』など。エッセー集に『三四郎はそれから門を出た』『あやつられ文楽鑑賞』など多数。2008年から太宰治賞の選考委員、2009年から手塚治虫文化賞の選考委員を務めている。
今年も1月2日の朝8時、新年の儀式のようにテレビの前に座ってチャンネルをあわせた。色とりどりのユニホームがスタートの合図で一斉に画面の前の自分に向かって迫ってきた。正月の風物詩とも言える“箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)”である。「何故そんなに苦しそうなのに走るのだろう」といつも思いながら、見ている自分まで体に力が入って、知らず知らずのうちに応援をしている。やはり、人が風を切って走る姿は、見ているだけでも気持ちがよい。
『風が強く吹いている』(三浦しをん著)は、その箱根駅伝を舞台にした小説である。もちろん、話のなかには10人(箱根駅伝は往路・復路あわせて10人でリレーをする)の選手が登場する。個性豊かなメンバーが繰り広げる「箱根駅伝」への挑戦の過程では、箱根駅伝というメインテーマがただのエッセンスにすぎないと感じるほど、人間模様やそれぞれの選手の心の葛藤が深く掘り下げられている。走っている選手の心の描写が丁寧に表現されているため、本の中の世界へすぐに引き込まれ、読んでいる人も一緒に箱根を目指している気持ちになるのである。箱根駅伝本番のシーンは、正月に見ている中継さながらにスピード感があって、緊張感が伝わってくるので、実際にメンバー全員が、あの上ったり下がったりの起伏の激しいコースを、襷(たすき)をかけて懸命に走っている姿が目に浮かんでくる。
箱根駅伝のテレビ中継を見ながらふと考えた。そもそも、ただ走るだけのこの地味なスポーツのどこに魅せられているのだろうかと。個人的にはマラソンにはここまでは魅かれはしない。やはり駅伝には、襷を繋げるという行為があり、襷で繋がれた人の絆を見てとれるからなのかもしれない。襷と一緒に願いを繋げている。繋げようとする必死の形相(ぎょうそう)、繋がらずに泣きながら仲間に謝る姿。それが心に響いて、「もう十分にがんばった!」と伝えたくなる。
一本の襷を通して筆者が伝えたかったのは、勝負にさえ勝てばよいというものを超えた、“仲間を信じること”の大切さであると私は感じた。年度の終わりが近づいている今、一年間ともに過ごしたクラスの仲間の有難みを感じてほしい。
この本を読み終えた後は幸福感に包まれ、そして箱根駅伝が待ち遠しくなる。その襷を繋げようとする姿を直に見たいと思い、来年は鶴見中継所へ行こうと考えている。もう一度、この本を読みなおしてから。
<社会科 石田 剛>
今年も1月2日の朝8時、新年の儀式のようにテレビの前に座ってチャンネルをあわせた。色とりどりのユニホームがスタートの合図で一斉に画面の前の自分に向かって迫ってきた。正月の風物詩とも言える“箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)”である。「何故そんなに苦しそうなのに走るのだろう」といつも思いながら、見ている自分まで体に力が入って、知らず知らずのうちに応援をしている。やはり、人が風を切って走る姿は、見ているだけでも気持ちがよい。
『風が強く吹いている』(三浦しをん著)は、その箱根駅伝を舞台にした小説である。もちろん、話のなかには10人(箱根駅伝は往路・復路あわせて10人でリレーをする)の選手が登場する。個性豊かなメンバーが繰り広げる「箱根駅伝」への挑戦の過程では、箱根駅伝というメインテーマがただのエッセンスにすぎないと感じるほど、人間模様やそれぞれの選手の心の葛藤が深く掘り下げられている。走っている選手の心の描写が丁寧に表現されているため、本の中の世界へすぐに引き込まれ、読んでいる人も一緒に箱根を目指している気持ちになるのである。箱根駅伝本番のシーンは、正月に見ている中継さながらにスピード感があって、緊張感が伝わってくるので、実際にメンバー全員が、あの上ったり下がったりの起伏の激しいコースを、襷(たすき)をかけて懸命に走っている姿が目に浮かんでくる。
箱根駅伝のテレビ中継を見ながらふと考えた。そもそも、ただ走るだけのこの地味なスポーツのどこに魅せられているのだろうかと。個人的にはマラソンにはここまでは魅かれはしない。やはり駅伝には、襷を繋げるという行為があり、襷で繋がれた人の絆を見てとれるからなのかもしれない。襷と一緒に願いを繋げている。繋げようとする必死の形相(ぎょうそう)、繋がらずに泣きながら仲間に謝る姿。それが心に響いて、「もう十分にがんばった!」と伝えたくなる。
一本の襷を通して筆者が伝えたかったのは、勝負にさえ勝てばよいというものを超えた、“仲間を信じること”の大切さであると私は感じた。年度の終わりが近づいている今、一年間ともに過ごしたクラスの仲間の有難みを感じてほしい。
この本を読み終えた後は幸福感に包まれ、そして箱根駅伝が待ち遠しくなる。その襷を繋げようとする姿を直に見たいと思い、来年は鶴見中継所へ行こうと考えている。もう一度、この本を読みなおしてから。
<社会科 石田 剛>
![]() | 風が強く吹いている (2006/09/21) 三浦 しをん |
2009-09-07 16:23 |
カテゴリ:学園
立花隆(たちばな・たかし) 評論家・ジャーナリスト。1940年(昭和15年)長崎生まれ。東大仏文科卒業後、文藝春秋社に入社。文藝春秋社を退社し、東大哲学科入学。在学中からフリーライターとして活動。東大先端研客員教授、東大教養学部非常勤講師などを経て、現在は東京大学大学院情報学環特任教授。その他に立教大学21世紀社会デザイン研究科特任教授、大阪大学レーザーエネルギー学研究センター参与、文科省次世代スーパーコンピューター開発利用アドバイザーリーボード委員なども務める。1974年に『田中角栄研究』で文藝春秋読者賞、1975年に『田中角栄研究 その金脈と人脈』で新評賞、1979年に『日本共産党の研究』で講談社ノンフィクション賞、1987年に『脳死』で毎日出版文化賞など数々の受賞歴がある。
1974年(昭和49年)、立花隆は 『文藝春秋』に「田中角栄研究~その金脈と人脈」を発表した。ロッキード事件に関する立花氏の記事は、他のマスコミの画一的なものとは違い、自らの足で集めた膨大な資料にもとづくものであり、田中角栄退陣のきっかけとなった。ひとりのジャーナリストの『調べて書く』行為が日本の政治を変えたのである。
この著書名にあった『調べて書く』という言葉に私は強い興味をもった。このことについて立花氏は、本書で以下のように述べている。
「なぜ、『調べて書く』なのかといえば、多くの学生にとって調べることと書くことが、これからの一生の生活の中で、最も重要とされる知的能力だからである。調べることと書くことは、もっぱら私(立花隆)のようなジャーナリストにだけ必要とされる能力ではなく、現代社会においては、ほとんどあらゆる知的能力において一生の間必要とされる能力である。」
本校のけやき祭でも、「調べて」それを「人に伝える」ことをプレゼンテーション形式で行う。広尾学園を卒業してからも社会のなかで活躍してほしいからである。「最も重要とされる知的能力」を身につけてほしい企画なのである。
この著書は、東京大学教養学部・立花隆ゼミの学生が、多くの著名人・一般人に、二十歳のころの自分についてインタビューしたものである。インタビューを受けた人は、経営者、医者、俳優、弁護士、小説家、宮大工、会社員、漫画家、音楽家等、様々な分野の人である。インタビューの内容は、「二十歳の頃にどんなことをしていて、どんなことを考えていたのか」、それから派生して、「二十歳の人へのメッセージやアドバイス」「もう一度、二十歳に戻れるとしたら」などの話もあり、その人の今に至るまでの考え方や感じ方の変遷、人生哲学まで語られている。
人生のターニングポイントが必ず二十歳前後にやってくるとは限らない。しかし、なにか大きな外的な出来事がなくても、社会から大人としての自由と責任を付与されれば、内的な成長とそれに伴う葛藤は、多くの人が二十歳前後に経験するものと思っている。そう考えると、二十歳前後というのは人の一生の中では大変に重要な時期なのだが、自分も含めて、自身がそのような状況にいるときは、ほとんどの人がその重要性に気づいていないのではないだろうか。本人が気づかないのは仕方ないとして、周囲にいる人生の先輩たちがそれを伝えてあげられないのは残念なことである。
本書を読んでいて強く感じたことは、二十歳までの人生には環境要因がものすごく影響を与えているということである。インタビューのなかから読み取れたのは、幼児期から大学生くらいまでの育った環境が、前向きになれる環境、刺激的な環境、危険な環境、知的な環境、不安定な環境など、どのような環境に該当するかが、その人の内的な成長を大きく左右するということである。私自身はもうとっくに「二十歳のころ」ではなくなってしまったので、今度は生徒たちにできるだけ良い環境を作ってやらねばならない…と考えている。
読み進んでいくうちに、どうしても私自身の二十歳のころを思い出すことになった。当時、私は自分の世界の狭さと志の低さを自覚していて、それをコンプレックスのようにも感じていたので、それを克服しようと必死だった。膨大な本を読み、世界中を回り、それらの資金を稼ぐためにさまざまなアルバイトをした。どの経験からも今まで知らなかった世界を知り、気付かなかったことに気付かされた。
立花氏は本書で次のように言っている。
「ぼくは、 ~略~ 経験に対して貪欲なんです。何か新しいことをしてみたいという気持ちがいつでもある。」
本書に登場する人たちが体験したような濃密な経験が自分にはできてはいなかったのかもしれない。五十歳のころになったときに、同じようなインタビューを受けたとしたら、この本に載せても見劣りしないような話ができるのか、自分自身に問いかけてみる。この本に出てくる人は、二十歳前後に積み上げたものの量がまったく違う。その分野の第一人者の人が殆どなので、志がとても高く、その人の原点を見ることができる。もし、ある人のことを深く知りたいのならば、二十歳のころの話を聞いてみるとよいのかもしれない。
この本でインタビューを受けた人たちの多くが、「読書から受けた影響」を語っている。「今の若者はもっと本を読め」と直接、話している人もいた。この本は、インタビューされた人の人数が多くて、分野も多肢に渡っているのがよい。そして、一人ずつのインタビュー自体はページ数が多くないので、それぞれを読み切りとして気軽に読むことができる。これから二十歳になる人、かつて二十歳だった人に読んでほしい。
<社会科 石田 剛>
1974年(昭和49年)、立花隆は 『文藝春秋』に「田中角栄研究~その金脈と人脈」を発表した。ロッキード事件に関する立花氏の記事は、他のマスコミの画一的なものとは違い、自らの足で集めた膨大な資料にもとづくものであり、田中角栄退陣のきっかけとなった。ひとりのジャーナリストの『調べて書く』行為が日本の政治を変えたのである。
この著書名にあった『調べて書く』という言葉に私は強い興味をもった。このことについて立花氏は、本書で以下のように述べている。
「なぜ、『調べて書く』なのかといえば、多くの学生にとって調べることと書くことが、これからの一生の生活の中で、最も重要とされる知的能力だからである。調べることと書くことは、もっぱら私(立花隆)のようなジャーナリストにだけ必要とされる能力ではなく、現代社会においては、ほとんどあらゆる知的能力において一生の間必要とされる能力である。」
本校のけやき祭でも、「調べて」それを「人に伝える」ことをプレゼンテーション形式で行う。広尾学園を卒業してからも社会のなかで活躍してほしいからである。「最も重要とされる知的能力」を身につけてほしい企画なのである。
この著書は、東京大学教養学部・立花隆ゼミの学生が、多くの著名人・一般人に、二十歳のころの自分についてインタビューしたものである。インタビューを受けた人は、経営者、医者、俳優、弁護士、小説家、宮大工、会社員、漫画家、音楽家等、様々な分野の人である。インタビューの内容は、「二十歳の頃にどんなことをしていて、どんなことを考えていたのか」、それから派生して、「二十歳の人へのメッセージやアドバイス」「もう一度、二十歳に戻れるとしたら」などの話もあり、その人の今に至るまでの考え方や感じ方の変遷、人生哲学まで語られている。
人生のターニングポイントが必ず二十歳前後にやってくるとは限らない。しかし、なにか大きな外的な出来事がなくても、社会から大人としての自由と責任を付与されれば、内的な成長とそれに伴う葛藤は、多くの人が二十歳前後に経験するものと思っている。そう考えると、二十歳前後というのは人の一生の中では大変に重要な時期なのだが、自分も含めて、自身がそのような状況にいるときは、ほとんどの人がその重要性に気づいていないのではないだろうか。本人が気づかないのは仕方ないとして、周囲にいる人生の先輩たちがそれを伝えてあげられないのは残念なことである。
本書を読んでいて強く感じたことは、二十歳までの人生には環境要因がものすごく影響を与えているということである。インタビューのなかから読み取れたのは、幼児期から大学生くらいまでの育った環境が、前向きになれる環境、刺激的な環境、危険な環境、知的な環境、不安定な環境など、どのような環境に該当するかが、その人の内的な成長を大きく左右するということである。私自身はもうとっくに「二十歳のころ」ではなくなってしまったので、今度は生徒たちにできるだけ良い環境を作ってやらねばならない…と考えている。
読み進んでいくうちに、どうしても私自身の二十歳のころを思い出すことになった。当時、私は自分の世界の狭さと志の低さを自覚していて、それをコンプレックスのようにも感じていたので、それを克服しようと必死だった。膨大な本を読み、世界中を回り、それらの資金を稼ぐためにさまざまなアルバイトをした。どの経験からも今まで知らなかった世界を知り、気付かなかったことに気付かされた。
立花氏は本書で次のように言っている。
「ぼくは、 ~略~ 経験に対して貪欲なんです。何か新しいことをしてみたいという気持ちがいつでもある。」
本書に登場する人たちが体験したような濃密な経験が自分にはできてはいなかったのかもしれない。五十歳のころになったときに、同じようなインタビューを受けたとしたら、この本に載せても見劣りしないような話ができるのか、自分自身に問いかけてみる。この本に出てくる人は、二十歳前後に積み上げたものの量がまったく違う。その分野の第一人者の人が殆どなので、志がとても高く、その人の原点を見ることができる。もし、ある人のことを深く知りたいのならば、二十歳のころの話を聞いてみるとよいのかもしれない。
この本でインタビューを受けた人たちの多くが、「読書から受けた影響」を語っている。「今の若者はもっと本を読め」と直接、話している人もいた。この本は、インタビューされた人の人数が多くて、分野も多肢に渡っているのがよい。そして、一人ずつのインタビュー自体はページ数が多くないので、それぞれを読み切りとして気軽に読むことができる。これから二十歳になる人、かつて二十歳だった人に読んでほしい。
<社会科 石田 剛>
![]() | 二十歳のころ―立花ゼミ『調べて書く』共同製作 立花 隆東京大学教養学部立花隆ゼミ |
2009-06-26 12:50 |
カテゴリ:学園
ヴィクトール・エミール・フランクル(1905年3月26日 - 1997年9月2日)精神科医、心理学者。アドラーやフロイトに師事。「第三ウィーン学派」として、元々知られていたが、第二次世界大戦中、ユダヤ人であるが為にナチスによって強制収容所に送られる。ここでの体験をもとにした『夜と霧』は世界中で読み継がれ強制収容所で起こった事実を後世に伝えている。
会いたくても間に合わなかった出会いがある。
もちろん、かろうじて間に合ったという体験もあるのだが、「どうしてもっと早く気付かなかったか」と自分の迂闊さに恥じ入ることのほうが圧倒的に多い。私にとってヴィクトール・フランクルはその一人だったと自分勝手に思っている。
会おうと思ったら会えるチャンスはあったのだ。
本書『それでも人生にイエスと言う』の巻末にある詳細な解説の中で、「今年(1993年5月)の東京での講演で…」という文章を読んで初めて、フランクルが自分と一部重なる時代の人物であったことをあらためて知った。しかも彼の話を東京で直に聞けるチャンスさえあったのだ。
私の中で、フランクルは著名な人物というだけでなく、著名であればあるほど遠い歴史的な人物になってしまっていたのである。
フランクルはオーストリア生まれの精神科医、心理学者である。ユダヤ人であった彼は、第2次世界大戦中、3年間をアウシュビッツ、ダッハウなどの強制収容所で過ごした。収容所に入れられる前、すでに彼独自の理論(ロゴセラピー)はほぼ確立されていたが、その理論が収容所の絶望的な体験の中でさらに証明される結果になったという。本書は彼が解放された翌年に行った講演(第一講演~第3講演)の記録である。
「人間は、決して、目的のための手段にされてはならない」というカントの言葉以来、ヨーロッパは人間の尊厳について明確な思索の積み重ねを体験をしてきたはずである。
しかし、現実は、「死刑の判決を下された人間の生命さえも、最後のひとときにいたるまで徹底的に利用」する強制収容所の建設と運営という事実を生み出した。
強制収容所において人がどのような状況や思いで過ごしたかは本書のさまざまな場面で描かれている。よく「想像を絶する」という言葉が、過酷な状況について使われることが多いが、ここでは、私たちのそういった大雑把な思い込みを覆す一文を紹介する。
「私たちは、苦悩や、問題や、葛藤なしには生きていけないような状態をどれほど切望したことでしょうか。(中略)とにかく人間にふさわしく意味のある苦悩が課せられている状態をどれほど切望したでしょうか。」
私たちは日常生活の中で「苦悩」や「問題」「葛藤」から逃れることを願う。それは私たちが「日常」に生きているからであり、ともすればそれらから逃れることが「幸福」につながるものと錯覚してしまう。しかし、「日常」ではない極限的な環境下に置かれて、すべてをはぎ取られた人間は「動物のような苦痛や危険」のみが取り巻く世界の中で、人間らしい苦悩や問題、葛藤をこそ、人間の証として求めるというのである。
このような限界状況の中で、いかに生きることができるのか。どのような生き方が可能だったというのだろうか。
フランクルは言う。それでもなお、一人ひとりの「決断」の余地はまだ残されており、「最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか『だけ』だった」と。
それは収容された人々だけの問題ではなく、ポケットマネーで囚人のために薬を調達したナチス親衛隊員の収容所長、誰よりも囚人仲間を虐待した最年長囚人の存在も含めてのことであり、さらにはその時代、その立場や環境がいかに違っていたとしても変わらない事実なのだと。
私たちがこの講演記録を読む時、それは強制収容所の事実を知ることであり、フランクルがそこでの体験を通じて確信した人間心理の分析と対処法を学ぶことにもなる。だが、最も肝心なことは、本書の中から、自分自身にとってのフランクルの言葉を見出すことにあるのではないかと思う。
私自身、何度か読み直す機会があったが、そのたびに胸に居座ってしまう言葉と出会う。しかも、読むたびにその言葉は違っている。おそらくは、自分自身の精神的な変化や成長にともなって、そういった言葉は変わっていくものなのだろう。
ただ、一つだけ気にしていただきたい一節がある。私が何度読んでも、必ず読むことを休止してしまう一節である。「人生にまだなにかを期待できるのか」と考えてしまう私たちに対して、フランクルは「コペルニクス的」ともいえる転換を教えてくれている。「人生は私になにを期待しているか」を問いなさいと。
私にとって読書はいつも沈黙の行為である。だが、今回、あらためて本書を読む中で、私はめったにない体験をした。
「生き延びた私たちは、私たちといっしょにそこにいたもっとも立派な人たちが、そこを出ることがなかったことをわかりすぎるほどわかっていた‥」という一文を読んだ時である。
その瞬間、医者でもない、心理学者でもない、人間としてのフランクルの声が活字の中から聞こえたのである。読む側の思い込みがそうさせたのであろうと思う。しかし、私にはまさにそこにいる人の声のように聞こえたのである。
フランクルには会えなかった。その肉声さえ聞いたことがない。けれども、実際会うこと以上に、そしてその声を生で聞く以上に、本を通じて著者につながることは可能なのではないかと思った。
それは振り絞るような声であった。
<社会科 金子 暁(さとる)>
会いたくても間に合わなかった出会いがある。
もちろん、かろうじて間に合ったという体験もあるのだが、「どうしてもっと早く気付かなかったか」と自分の迂闊さに恥じ入ることのほうが圧倒的に多い。私にとってヴィクトール・フランクルはその一人だったと自分勝手に思っている。
会おうと思ったら会えるチャンスはあったのだ。
本書『それでも人生にイエスと言う』の巻末にある詳細な解説の中で、「今年(1993年5月)の東京での講演で…」という文章を読んで初めて、フランクルが自分と一部重なる時代の人物であったことをあらためて知った。しかも彼の話を東京で直に聞けるチャンスさえあったのだ。
私の中で、フランクルは著名な人物というだけでなく、著名であればあるほど遠い歴史的な人物になってしまっていたのである。
フランクルはオーストリア生まれの精神科医、心理学者である。ユダヤ人であった彼は、第2次世界大戦中、3年間をアウシュビッツ、ダッハウなどの強制収容所で過ごした。収容所に入れられる前、すでに彼独自の理論(ロゴセラピー)はほぼ確立されていたが、その理論が収容所の絶望的な体験の中でさらに証明される結果になったという。本書は彼が解放された翌年に行った講演(第一講演~第3講演)の記録である。
「人間は、決して、目的のための手段にされてはならない」というカントの言葉以来、ヨーロッパは人間の尊厳について明確な思索の積み重ねを体験をしてきたはずである。
しかし、現実は、「死刑の判決を下された人間の生命さえも、最後のひとときにいたるまで徹底的に利用」する強制収容所の建設と運営という事実を生み出した。
強制収容所において人がどのような状況や思いで過ごしたかは本書のさまざまな場面で描かれている。よく「想像を絶する」という言葉が、過酷な状況について使われることが多いが、ここでは、私たちのそういった大雑把な思い込みを覆す一文を紹介する。
「私たちは、苦悩や、問題や、葛藤なしには生きていけないような状態をどれほど切望したことでしょうか。(中略)とにかく人間にふさわしく意味のある苦悩が課せられている状態をどれほど切望したでしょうか。」
私たちは日常生活の中で「苦悩」や「問題」「葛藤」から逃れることを願う。それは私たちが「日常」に生きているからであり、ともすればそれらから逃れることが「幸福」につながるものと錯覚してしまう。しかし、「日常」ではない極限的な環境下に置かれて、すべてをはぎ取られた人間は「動物のような苦痛や危険」のみが取り巻く世界の中で、人間らしい苦悩や問題、葛藤をこそ、人間の証として求めるというのである。
このような限界状況の中で、いかに生きることができるのか。どのような生き方が可能だったというのだろうか。
フランクルは言う。それでもなお、一人ひとりの「決断」の余地はまだ残されており、「最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか『だけ』だった」と。
それは収容された人々だけの問題ではなく、ポケットマネーで囚人のために薬を調達したナチス親衛隊員の収容所長、誰よりも囚人仲間を虐待した最年長囚人の存在も含めてのことであり、さらにはその時代、その立場や環境がいかに違っていたとしても変わらない事実なのだと。
私たちがこの講演記録を読む時、それは強制収容所の事実を知ることであり、フランクルがそこでの体験を通じて確信した人間心理の分析と対処法を学ぶことにもなる。だが、最も肝心なことは、本書の中から、自分自身にとってのフランクルの言葉を見出すことにあるのではないかと思う。
私自身、何度か読み直す機会があったが、そのたびに胸に居座ってしまう言葉と出会う。しかも、読むたびにその言葉は違っている。おそらくは、自分自身の精神的な変化や成長にともなって、そういった言葉は変わっていくものなのだろう。
ただ、一つだけ気にしていただきたい一節がある。私が何度読んでも、必ず読むことを休止してしまう一節である。「人生にまだなにかを期待できるのか」と考えてしまう私たちに対して、フランクルは「コペルニクス的」ともいえる転換を教えてくれている。「人生は私になにを期待しているか」を問いなさいと。
私にとって読書はいつも沈黙の行為である。だが、今回、あらためて本書を読む中で、私はめったにない体験をした。
「生き延びた私たちは、私たちといっしょにそこにいたもっとも立派な人たちが、そこを出ることがなかったことをわかりすぎるほどわかっていた‥」という一文を読んだ時である。
その瞬間、医者でもない、心理学者でもない、人間としてのフランクルの声が活字の中から聞こえたのである。読む側の思い込みがそうさせたのであろうと思う。しかし、私にはまさにそこにいる人の声のように聞こえたのである。
フランクルには会えなかった。その肉声さえ聞いたことがない。けれども、実際会うこと以上に、そしてその声を生で聞く以上に、本を通じて著者につながることは可能なのではないかと思った。
それは振り絞るような声であった。
<社会科 金子 暁(さとる)>
![]() | それでも人生にイエスと言う V.E. フランクル |
2009-05-23 01:29 |
カテゴリ:学園
吉田 満(よしだみつる/1923年-1979年) 1942年に東京帝国大学法学部に入学。1943年10月学徒出陣。1944年12月、戦艦大和に乗艦し、前代未聞の巨艦特攻作戦に参加するも生還。敗戦後、吉川英治の勧めで『戦艦大和ノ最期』を執筆して、後に日本銀行に入行。『戦艦大和ノ最期』は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲を受け、1974年まで数度の改稿を経て今日の姿となった。
私が文章の持つ凄まじい力を知ったのはこの作品によってである。
それまでも戦争を描いた作品にはいくつか触れていた。大学の入試問題や演習問題をきっかけに読み始めることが多かった。それらの作品で、私はそれまでの自分の想像のレベルをはるかに超えた現実の重さに直面していた。そういった中にあって、昭和20年4月2日から7日までの大和の最期を記録した本書から受けた衝撃はとりわけ大きかった。死に行く意味を求める乗員たちのぎりぎりの苦悶と果てしなく続く議論。そして沈没まで2時間という時間に凝縮された壮絶な戦闘。
人の書く文章がこんなにも読む者の心を動かすことが出来る。その動かす「力」の強さを思い知ったのである。それ以来、私は強烈な「力」を感じさせてくれる文章ばかり探し求めるようになった。ルポルタージュや記録に取り憑かれたのもその頃のことであり、その契機はやはりこの作品にあったと思う。
戦艦大和は世界最大最強の軍艦として誕生した。太平洋戦争初期、日本は英国の最新鋭軍艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を撃沈して航空機の優位性と時代を世界に証明した。にもかかわらず、その後も日本では大艦巨砲主義の路線は続き、日本海軍の威信をかけて生み出されたのが大和であった。「世界最強」であった大和は、巨艦としての強さの分だけ神秘的な響きをもって米軍将兵から恐れられる一方で、戦略的にも実戦的にも時代に遅れた「長物」という形で戦史に登場することになる。
戦艦大和は沖縄戦において、戦艦による特攻作戦というミッションを与えられる。大和が米空軍機の集中攻撃を浴びることで、日本側戦闘機の米艦隊に対する特攻作戦を有利にすすめる。燃料も指令段階では往路分のみという前代未聞の巨艦特攻作戦であった。この作戦に戦局を転換させる見込みがないのは大和乗組員を含めて関係者全員が認識していた。
吉田満は東大法学部在学中、学徒動員によって戦艦大和の副電測士としてこの沖縄特攻作戦に参加。奇跡的に生還した。「奇跡的に」というのは、この戦闘が絶望的なものであっただけでなく、いくつもの幸運な偶然が連続して何重にも積み重ならなければ、生き延びることが不可能だったからである。
一瞬目線を交わした兵士が直撃弾を受けて「消滅」する。船体の傾きを是正するための「無断注水」によって数百の機関兵が水没する。「作戦中止」後も、巨艦にふさわしい巨大な煙突に激流ととともに呑み込まれる兵士たち。海に落ちれば大和の巨大なスクリューに切り裂かれる。さらに、半径300メートル圏内は危険区域となる沈没時の渦流と大爆発。重油の海で救出を待ち一人また一人と見えなくなる生存者。
その中を吉田満は生き残った。
彼は軍人としての当然の責務として、大和沈没にいたる報告を詳細かつ冷静に行う必要があった。作戦の経過を細大漏らさず、主観を交えず報告する作業の繰り返しが、彼の目で目撃し、把握していた事実を記憶に強力に根付かせていった。この作品を一気に一日で書き上げるときに、何を考えるでもなく、文章が簡潔な文語体として始められたのはその故であろう。
彼の第二の責務は、生き残った者として死んでいった者たちの姿を世に残すことであった。これを生き残った自分がやらずに誰がやるか。全艦からの報告と指令が集中する分掌で司令官、艦長らの身近に最期までいた身である。ましてや戦闘前の兵士たちの苦悶から、さまざまな兵士たちの身の上話まで知る身である。書かずにはいられなかった思いが作品を貫いている。
そして、第三の責務。それは自分の新しい生を始めるという責務であった。
「戦争は、学生であった私たちの生活の全面を破壊し、終戦の廃墟の中に私を取り残していった。-しかし、私は今立ち直らなければならない。新しく生き始めなければならない。」(初版本あとがき)
「戦艦大和の最期」のもつ文章の力は、おそらくこの3重の責務が織りなす力を土台としているのだろう。さらに言えば、それらの責務の背後にずっとあるのが、この作戦に巻き込まれた将兵たちのやり場のない憤りである。それは太平洋戦争という国を挙げての行為が、いつしか歴史に残る愚行に転落し、その愚行にまんまと引きずり込まれてしまったことに対する憤りと捉えることも出来よう。
「進歩のない者は決して勝たない (中略) 敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるのか 今日目覚めずしていつ救われるのか 俺たちはその先導になるのだ 日本の新生にさきがけて散る まさに本望じゃないか (中略) 白淵大尉の右の結論は、出撃の数日前、よくこの論戦を制して、収拾に成功せるものあり」
白淵大尉は兵学校出身たちと学徒出身者たちの乱闘の修羅場をこの無理矢理な「結論」で収拾しようとする。無理矢理な「結論」であることは誰の目にも明らかだったはずである。しかし、彼らはここで折り合いを付ける他なかった。自分を納得させざるを得なかった。
その無念さの持つ力こそが、「戦艦大和の最期」の強烈な文章の源であったのだとあらためて思う。
<社会科 金子 暁(さとる)>
私が文章の持つ凄まじい力を知ったのはこの作品によってである。
それまでも戦争を描いた作品にはいくつか触れていた。大学の入試問題や演習問題をきっかけに読み始めることが多かった。それらの作品で、私はそれまでの自分の想像のレベルをはるかに超えた現実の重さに直面していた。そういった中にあって、昭和20年4月2日から7日までの大和の最期を記録した本書から受けた衝撃はとりわけ大きかった。死に行く意味を求める乗員たちのぎりぎりの苦悶と果てしなく続く議論。そして沈没まで2時間という時間に凝縮された壮絶な戦闘。
人の書く文章がこんなにも読む者の心を動かすことが出来る。その動かす「力」の強さを思い知ったのである。それ以来、私は強烈な「力」を感じさせてくれる文章ばかり探し求めるようになった。ルポルタージュや記録に取り憑かれたのもその頃のことであり、その契機はやはりこの作品にあったと思う。
戦艦大和は世界最大最強の軍艦として誕生した。太平洋戦争初期、日本は英国の最新鋭軍艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を撃沈して航空機の優位性と時代を世界に証明した。にもかかわらず、その後も日本では大艦巨砲主義の路線は続き、日本海軍の威信をかけて生み出されたのが大和であった。「世界最強」であった大和は、巨艦としての強さの分だけ神秘的な響きをもって米軍将兵から恐れられる一方で、戦略的にも実戦的にも時代に遅れた「長物」という形で戦史に登場することになる。
戦艦大和は沖縄戦において、戦艦による特攻作戦というミッションを与えられる。大和が米空軍機の集中攻撃を浴びることで、日本側戦闘機の米艦隊に対する特攻作戦を有利にすすめる。燃料も指令段階では往路分のみという前代未聞の巨艦特攻作戦であった。この作戦に戦局を転換させる見込みがないのは大和乗組員を含めて関係者全員が認識していた。
吉田満は東大法学部在学中、学徒動員によって戦艦大和の副電測士としてこの沖縄特攻作戦に参加。奇跡的に生還した。「奇跡的に」というのは、この戦闘が絶望的なものであっただけでなく、いくつもの幸運な偶然が連続して何重にも積み重ならなければ、生き延びることが不可能だったからである。
一瞬目線を交わした兵士が直撃弾を受けて「消滅」する。船体の傾きを是正するための「無断注水」によって数百の機関兵が水没する。「作戦中止」後も、巨艦にふさわしい巨大な煙突に激流ととともに呑み込まれる兵士たち。海に落ちれば大和の巨大なスクリューに切り裂かれる。さらに、半径300メートル圏内は危険区域となる沈没時の渦流と大爆発。重油の海で救出を待ち一人また一人と見えなくなる生存者。
その中を吉田満は生き残った。
彼は軍人としての当然の責務として、大和沈没にいたる報告を詳細かつ冷静に行う必要があった。作戦の経過を細大漏らさず、主観を交えず報告する作業の繰り返しが、彼の目で目撃し、把握していた事実を記憶に強力に根付かせていった。この作品を一気に一日で書き上げるときに、何を考えるでもなく、文章が簡潔な文語体として始められたのはその故であろう。
彼の第二の責務は、生き残った者として死んでいった者たちの姿を世に残すことであった。これを生き残った自分がやらずに誰がやるか。全艦からの報告と指令が集中する分掌で司令官、艦長らの身近に最期までいた身である。ましてや戦闘前の兵士たちの苦悶から、さまざまな兵士たちの身の上話まで知る身である。書かずにはいられなかった思いが作品を貫いている。
そして、第三の責務。それは自分の新しい生を始めるという責務であった。
「戦争は、学生であった私たちの生活の全面を破壊し、終戦の廃墟の中に私を取り残していった。-しかし、私は今立ち直らなければならない。新しく生き始めなければならない。」(初版本あとがき)
「戦艦大和の最期」のもつ文章の力は、おそらくこの3重の責務が織りなす力を土台としているのだろう。さらに言えば、それらの責務の背後にずっとあるのが、この作戦に巻き込まれた将兵たちのやり場のない憤りである。それは太平洋戦争という国を挙げての行為が、いつしか歴史に残る愚行に転落し、その愚行にまんまと引きずり込まれてしまったことに対する憤りと捉えることも出来よう。
「進歩のない者は決して勝たない (中略) 敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるのか 今日目覚めずしていつ救われるのか 俺たちはその先導になるのだ 日本の新生にさきがけて散る まさに本望じゃないか (中略) 白淵大尉の右の結論は、出撃の数日前、よくこの論戦を制して、収拾に成功せるものあり」
白淵大尉は兵学校出身たちと学徒出身者たちの乱闘の修羅場をこの無理矢理な「結論」で収拾しようとする。無理矢理な「結論」であることは誰の目にも明らかだったはずである。しかし、彼らはここで折り合いを付ける他なかった。自分を納得させざるを得なかった。
その無念さの持つ力こそが、「戦艦大和の最期」の強烈な文章の源であったのだとあらためて思う。
<社会科 金子 暁(さとる)>
![]() | 戦艦大和ノ最期 (講談社文芸文庫) 吉田 満 |
2008-12-21 20:24 |
カテゴリ:学園
池田 潔(いけだ きよし/1903年-1990年) 日銀総裁・大蔵大臣を務めた池田成彬(米沢出身)の二男として東京に生まれる。パブリックスクールのリース・スクールで学び、ケンブリッジ大学、ハイデルベルク大学に学ぶ。帰国後、慶應義塾大学文学部英文科教授。『自由と規律』(1949年)はベストセラーとなり、60年間に及ぶロングセラーとなった。
およそ戦後の日本において、教育や学校のあり方というものに興味を持った者で、この本を知らない者はなかったのではないだろうか。イギリスのパブリックスクールについて書かれたこの「自由と規律」は、学校関係者にとっても時に応じて指針を与えてくれるバイブル的な存在であったと言ってもよい。
第1刷が1949年11月。かくも長く、広く読まれ続けた背景には、さまざまに揺れ動く日本の教育行政や教育の現場の対応の中、悩み迷った多くの教員たちを、この本が励まし、勇気づけ、新たな力を注入し続けたということがあったのではないかと思われる。
著者池田潔は、米沢出身者で三井財閥の指揮を執った池田成彬の次男である。第一次世界大戦後から満州事変の直前までという時期に名門パブリックスクールの一つリース・スクール、ケンブリッジ大学、ハイデルベルグ大学で学んだ、まさにエリートと言える。
ただ、もしこの本が、エリートによる他国礼賛型の体験談に過ぎなかったり、今の日本のように教育の時流に乗ってもてはやされただけのものであったとしたら、時間の経過とともに読む人も絶えてなかったであろう。
本書のポイントは、学校教育における際立った「強さ」は一面において大きな「弱さ」にもなることを踏まえた上で、その宿命とも言える「弱さ」を認識しながら策を講じる事でより理想的な「強さ」に到達できると説く点にあると思う。
どこの国のテスト結果が良かったからという一時の流行とはまるで無縁の教育観がそこにはある。そして、教育に携わった者なら誰もが求めてやまない普遍の価値がそこには描かれている。
たとえば、パブリックスクールのもつ課題について著者は次のように書く。
「これに反し、異常な才能を持ち合わせてこれを伸ばすことを許されず、しかも衆愚と妥協することを潔しとしない気概をもったものにとっては、これほど惨めな生活は考えられない」
その典型的な事例としてウィンストン・チャーチルをあげ、これはパブリックスクールだけの特質ではなくイギリス社会に通じる課題としている。しかし、それでもなお、である。それらの課題を解消することを得たパブリックスクールは他国の学校の追随を許さぬ「強さ」を発揮する。
この本の寿命の長さは、この稀有な学校モデルとしてのパブリックスクールの特質や長所によるところが大きいだろうが、著者自身のもつバランス感覚の見事さもあるのだろう。さらに、本書に散りばめられたパブリックスクールをめぐるエピソードの数々も実は大きな魅力となっている。
どんなに理を尽くして述べても伝えられない普遍的なものを、著者はパブリックスクールやケンブリッジでのエピソードで伝えようとしたのではないかと思う。それくらいエピソードが、何度読んでも同じ個所であらたな感銘を与えてくれるのである。しかも、読むたびに感銘は深くなっている。小泉信三氏はこの本の序の冒頭、「私は手から離さず読み了えた。多くの読者は同じ経験をするであろう」と書いたが、私の場合は、読み終えるまでに何度も何度も目を閉じて読むことを中断してしまう。毎回繰り返すことなのだが、どうしても本書に書かれたエピソードの情景を心に思い描かないわけにはいかないのである。
(ケンブリッジ大)カレッジの老給仕であるジョージの話してくれたというエピソードがある。
イギリスのスポーツと言えばクリケット競技となるが、永遠に不可能と言われた大記録を在学中に達成目前まで迫った選手がいた。新聞のトップニュースとなり、全英国が固唾をのんでこの偉業達成を見守る中、「スコアボードは九十三、九十五ときざみ、ついに九十九と出た。」あと1点で大記録である。「針が落ちるのも聞こえる」静寂の中で、どよめきがおこる。
守備についていた敵方の選手たちが、投手だけを残して全員引っ込んでしまうのである。もはやこの打者をアウトに出来る者などいないということである。
打者はただバットを差し出して玉に触れるだけで偉業達成である。しかし…。
この顛末はぜひ本書を読んでいただきたい。一つだけ書き添えておこう。この顛末に対する白髪の先輩たちの反応に、イギリスのパブリックスクール、ひいてはイギリス社会における「スポーツマンシップ」の本当の意味が読み取れる。
居合わせた先輩たちは『馬鹿な奴で』『ああいう馬鹿もののいる中は、まだまだわが帝国も…』と目の汗を拭きながら相顧みて膝を打ったというのである。
一生涯忘れられない教師たち。尊敬すべき級友・先輩・後輩たちとの思い出。国境や制度を超え、社会の要請や考え方の違いを超えて、目指すべき学校はある。どこの国の教師もそういった学校を自分たちの力で実現することを夢見ている。
もう一つ、本書中のエピソードを。
イギリスの芝は美しい。見学に来たアメリカの富豪が芝上でローラーを押している園丁にお金を握らせて芝の手入れの秘訣を聞いた。「水をやりなさい、ローラーをかけなさい。」そう答えた相手に富豪はさらにお金を渡す。園丁は同じことを答える。「水をやりなさい、ローラーをかけなさい。」富豪はさすがに怒りながらもさらにお金を握らせる。園丁は言う。「それを毎日繰り返して500年経つとこうなるんで。」しかも、この園丁は…というお話である。
イギリスのパブリックスクールやカレッジの強さである。悠長に500年かけても理想には近づけない。おそらく、当初から際立った特質を発揮できなければ何者にもなれなかったであろう。かつ、名門パブリックスクールやカレッジといえど、その際立った特質と裏腹にある欠点を不断に調整しながら進まなければ進化の止まった遺物になりかねない。
今、目の前にいる生徒たちに自分の持つ力の最高レベルを追求して提供し続けること。生徒たちは限りなく伸び続けるし、教師の成長の軌跡ははるか彼方までつながっていく。
「それを毎日繰り返して500年経つとこうなるんで。」
広尾学園でこの言葉をつぶやく人間はどんな人物であろうか。楽しみである。
<社会科 金子 暁(さとる)>
およそ戦後の日本において、教育や学校のあり方というものに興味を持った者で、この本を知らない者はなかったのではないだろうか。イギリスのパブリックスクールについて書かれたこの「自由と規律」は、学校関係者にとっても時に応じて指針を与えてくれるバイブル的な存在であったと言ってもよい。
第1刷が1949年11月。かくも長く、広く読まれ続けた背景には、さまざまに揺れ動く日本の教育行政や教育の現場の対応の中、悩み迷った多くの教員たちを、この本が励まし、勇気づけ、新たな力を注入し続けたということがあったのではないかと思われる。
著者池田潔は、米沢出身者で三井財閥の指揮を執った池田成彬の次男である。第一次世界大戦後から満州事変の直前までという時期に名門パブリックスクールの一つリース・スクール、ケンブリッジ大学、ハイデルベルグ大学で学んだ、まさにエリートと言える。
ただ、もしこの本が、エリートによる他国礼賛型の体験談に過ぎなかったり、今の日本のように教育の時流に乗ってもてはやされただけのものであったとしたら、時間の経過とともに読む人も絶えてなかったであろう。
本書のポイントは、学校教育における際立った「強さ」は一面において大きな「弱さ」にもなることを踏まえた上で、その宿命とも言える「弱さ」を認識しながら策を講じる事でより理想的な「強さ」に到達できると説く点にあると思う。
どこの国のテスト結果が良かったからという一時の流行とはまるで無縁の教育観がそこにはある。そして、教育に携わった者なら誰もが求めてやまない普遍の価値がそこには描かれている。
たとえば、パブリックスクールのもつ課題について著者は次のように書く。
「これに反し、異常な才能を持ち合わせてこれを伸ばすことを許されず、しかも衆愚と妥協することを潔しとしない気概をもったものにとっては、これほど惨めな生活は考えられない」
その典型的な事例としてウィンストン・チャーチルをあげ、これはパブリックスクールだけの特質ではなくイギリス社会に通じる課題としている。しかし、それでもなお、である。それらの課題を解消することを得たパブリックスクールは他国の学校の追随を許さぬ「強さ」を発揮する。
この本の寿命の長さは、この稀有な学校モデルとしてのパブリックスクールの特質や長所によるところが大きいだろうが、著者自身のもつバランス感覚の見事さもあるのだろう。さらに、本書に散りばめられたパブリックスクールをめぐるエピソードの数々も実は大きな魅力となっている。
どんなに理を尽くして述べても伝えられない普遍的なものを、著者はパブリックスクールやケンブリッジでのエピソードで伝えようとしたのではないかと思う。それくらいエピソードが、何度読んでも同じ個所であらたな感銘を与えてくれるのである。しかも、読むたびに感銘は深くなっている。小泉信三氏はこの本の序の冒頭、「私は手から離さず読み了えた。多くの読者は同じ経験をするであろう」と書いたが、私の場合は、読み終えるまでに何度も何度も目を閉じて読むことを中断してしまう。毎回繰り返すことなのだが、どうしても本書に書かれたエピソードの情景を心に思い描かないわけにはいかないのである。
(ケンブリッジ大)カレッジの老給仕であるジョージの話してくれたというエピソードがある。
イギリスのスポーツと言えばクリケット競技となるが、永遠に不可能と言われた大記録を在学中に達成目前まで迫った選手がいた。新聞のトップニュースとなり、全英国が固唾をのんでこの偉業達成を見守る中、「スコアボードは九十三、九十五ときざみ、ついに九十九と出た。」あと1点で大記録である。「針が落ちるのも聞こえる」静寂の中で、どよめきがおこる。
守備についていた敵方の選手たちが、投手だけを残して全員引っ込んでしまうのである。もはやこの打者をアウトに出来る者などいないということである。
打者はただバットを差し出して玉に触れるだけで偉業達成である。しかし…。
この顛末はぜひ本書を読んでいただきたい。一つだけ書き添えておこう。この顛末に対する白髪の先輩たちの反応に、イギリスのパブリックスクール、ひいてはイギリス社会における「スポーツマンシップ」の本当の意味が読み取れる。
居合わせた先輩たちは『馬鹿な奴で』『ああいう馬鹿もののいる中は、まだまだわが帝国も…』と目の汗を拭きながら相顧みて膝を打ったというのである。
一生涯忘れられない教師たち。尊敬すべき級友・先輩・後輩たちとの思い出。国境や制度を超え、社会の要請や考え方の違いを超えて、目指すべき学校はある。どこの国の教師もそういった学校を自分たちの力で実現することを夢見ている。
もう一つ、本書中のエピソードを。
イギリスの芝は美しい。見学に来たアメリカの富豪が芝上でローラーを押している園丁にお金を握らせて芝の手入れの秘訣を聞いた。「水をやりなさい、ローラーをかけなさい。」そう答えた相手に富豪はさらにお金を渡す。園丁は同じことを答える。「水をやりなさい、ローラーをかけなさい。」富豪はさすがに怒りながらもさらにお金を握らせる。園丁は言う。「それを毎日繰り返して500年経つとこうなるんで。」しかも、この園丁は…というお話である。
イギリスのパブリックスクールやカレッジの強さである。悠長に500年かけても理想には近づけない。おそらく、当初から際立った特質を発揮できなければ何者にもなれなかったであろう。かつ、名門パブリックスクールやカレッジといえど、その際立った特質と裏腹にある欠点を不断に調整しながら進まなければ進化の止まった遺物になりかねない。
今、目の前にいる生徒たちに自分の持つ力の最高レベルを追求して提供し続けること。生徒たちは限りなく伸び続けるし、教師の成長の軌跡ははるか彼方までつながっていく。
「それを毎日繰り返して500年経つとこうなるんで。」
広尾学園でこの言葉をつぶやく人間はどんな人物であろうか。楽しみである。
<社会科 金子 暁(さとる)>
![]() | 自由と規律―イギリスの学校生活 (岩波新書) 池田 潔 |
2008-11-06 13:18 |
カテゴリ:学園
塩野 七生(しおの ななみ、1937年7月7日生まれ)は、東京都出身の作家、小説家。女性。「七生」の名は、7月7日の「生まれ」であることに由来する。1963年からイタリアへ遊学し、1968年に帰国すると執筆を開始。雑誌『中央公論』掲載の『ルネサンスの女たち』で作家デビューを果たす。イタリア永住権を得ており、現在もイタリアの首都・ローマに在住。舞台をイタリア中心に限定し、古代から近世に至る歴史小説を多数執筆し続ける。ユリウス・カエサルの熱烈な崇拝者で政治家としての理想像はカエサルであると公言している。1992年から古代ローマを描く『ローマ人の物語』を年一冊のペースで執筆し、2006年第15巻『ローマ世界の終焉』にて完結した。2008年新春歴史ミステリー「古代ローマ1000年史!」は、このシリーズを忠実に映像化したドキュメンタリーである。
『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年 上・下』 (1980年 中央公論社)
『コンスタンティノープルの陥落』 (1983年 新潮社)
『ロードス島攻防記』(1985年 新潮社)
『レパントの海戦』(1987年 新潮社)
『ローマ人の物語1~15』(1992年から2006年 新潮社)
古代ギリシア人が前8世紀に建設した植民市ビザンティウム。ローマ帝国末期330年にコンスタンティヌス帝がこの地に遷都、コンスタンティノープルと改名した。以来1100年以上に渡り、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都として、1453年のコンスタンティノープル陥落までキリスト教徒の都であった。
アジア側とヨーロッパ側、2大陸に跨っているこの大都市の現在名はイスタンブル(トルコ共和国)。世界屈指の観光都市である。
私がこの都市を訪ねたのは今からちょうど10年前の1998年。旅行のきっかけは沢木耕太郎著『深夜特急』、そして行きの飛行機の中で読んだのが塩野さんの『コンスタンティノープルの陥落』だった。
一気に読んだ。
コンスタンティノープル陥落の現場に居合わせた人々の手記をもとにして書かれているこの作品を読むと、色々な立場からの見方がわかり面白い。ローマ帝国が幕を降ろすときの様子を、まるで眼の前で行われているかのように感じさせてくれる。
もちろんこの本のおかげで旅行は大変有意義なものになった。以来、塩野さんの作品に夢中になった。
厚い城壁の話が熱い『ロードス島攻防記』、足並みのそろわぬキリスト教連合艦隊がトルコに勝利する興奮のサクセスストーリー『レパントの海戦』、これら戦記物三部作読後も塩野さんの地中海歴史小説への欲求はとまらなかった。
『海の都の物語 上・下、ヴェネツィア共和国の一千年』は、上巻520頁、下巻570頁。さすがに読み切るのに相当な努力を要した。読めばヴェネツィアに行きたくなるし、塩野さんが心から好きな町だということが伝わってくる。
塩野さんは実に多くの文献を読み、現地調査を重ねている。道路の幅や壁の高さまで自分で測るほどの熱意だ。それが緊張感ある現地報告のように語られ、登場する人間が生き生きと描かれる所以だ。集めた歴史的事実を並べ、その空白部分を思い切って創作する。
「事実は再現できなくとも、事実であってもおかしくない事は再現できる。」彼女の言葉の通り、我々は再現された歴史の世界を楽しむことが出来る。
『ローマ人の物語13最後の努力』を読み終えた2006年夏、抑えきれない衝動と家族の多大なる理解により、一人イタリアを旅することになった。
ソウルを乗り継ぐ格安航空券に夜行列車、リュック1つで安宿を梯子する体力的にも厳しい旅だったが、塩野さんの多くの作品を通じて蓄積された知識が旅を充実させた。
人との出会いのみならず、長い歴史との出会い、そこには言い尽くせないほどの感動があった。

<社会科 藤井宏幸>
『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年 上・下』 (1980年 中央公論社)
『コンスタンティノープルの陥落』 (1983年 新潮社)
『ロードス島攻防記』(1985年 新潮社)
『レパントの海戦』(1987年 新潮社)
『ローマ人の物語1~15』(1992年から2006年 新潮社)
古代ギリシア人が前8世紀に建設した植民市ビザンティウム。ローマ帝国末期330年にコンスタンティヌス帝がこの地に遷都、コンスタンティノープルと改名した。以来1100年以上に渡り、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都として、1453年のコンスタンティノープル陥落までキリスト教徒の都であった。
アジア側とヨーロッパ側、2大陸に跨っているこの大都市の現在名はイスタンブル(トルコ共和国)。世界屈指の観光都市である。
私がこの都市を訪ねたのは今からちょうど10年前の1998年。旅行のきっかけは沢木耕太郎著『深夜特急』、そして行きの飛行機の中で読んだのが塩野さんの『コンスタンティノープルの陥落』だった。
一気に読んだ。
コンスタンティノープル陥落の現場に居合わせた人々の手記をもとにして書かれているこの作品を読むと、色々な立場からの見方がわかり面白い。ローマ帝国が幕を降ろすときの様子を、まるで眼の前で行われているかのように感じさせてくれる。
もちろんこの本のおかげで旅行は大変有意義なものになった。以来、塩野さんの作品に夢中になった。
厚い城壁の話が熱い『ロードス島攻防記』、足並みのそろわぬキリスト教連合艦隊がトルコに勝利する興奮のサクセスストーリー『レパントの海戦』、これら戦記物三部作読後も塩野さんの地中海歴史小説への欲求はとまらなかった。
『海の都の物語 上・下、ヴェネツィア共和国の一千年』は、上巻520頁、下巻570頁。さすがに読み切るのに相当な努力を要した。読めばヴェネツィアに行きたくなるし、塩野さんが心から好きな町だということが伝わってくる。
塩野さんは実に多くの文献を読み、現地調査を重ねている。道路の幅や壁の高さまで自分で測るほどの熱意だ。それが緊張感ある現地報告のように語られ、登場する人間が生き生きと描かれる所以だ。集めた歴史的事実を並べ、その空白部分を思い切って創作する。
「事実は再現できなくとも、事実であってもおかしくない事は再現できる。」彼女の言葉の通り、我々は再現された歴史の世界を楽しむことが出来る。
『ローマ人の物語13最後の努力』を読み終えた2006年夏、抑えきれない衝動と家族の多大なる理解により、一人イタリアを旅することになった。
ソウルを乗り継ぐ格安航空券に夜行列車、リュック1つで安宿を梯子する体力的にも厳しい旅だったが、塩野さんの多くの作品を通じて蓄積された知識が旅を充実させた。
人との出会いのみならず、長い歴史との出会い、そこには言い尽くせないほどの感動があった。

<社会科 藤井宏幸>
![]() | <>ローマ人の物語 塩野 七生 |
2008-06-09 19:07 |
カテゴリ:学園
池澤夏樹 1987年、「スティル・ライフ」にて第98回芥川賞受賞。人間と自然との関係への思索を透明感に満ちた文体で表現した小説を多数発表する一方で、豊かな感性と明晰な叙述によるエッセイも好評を得ている。さらには、理工学部に学んだ経歴とギリシャや沖縄滞在の経験からも、既存の表現者にはない表現対象に対する独自の省察に富んでいる。小説に「真昼のプリニウス」「マシアス・ギリの失脚」「バビロンに行きて歌え」、エッセイには「ブッキッシュな世界像」「楽しい終末」などがある。本書は、その小説デビュー作品。
マグロ漁の取材中に海へ転落した新聞記者―「彼」は漂流の後に無人島へと辿り着き、サバイバル生活を経て文明社会へと帰還する。しかし「彼」にはランボーのタフな肉体もインディー・ジョーンズの機智も備わっていない。さらに「彼」には、展開に従って明らかにされるべき「個性」も無い。つまりそこには、読み手が「彼」というカプセルに乗り込み、読解に従い無人島生活を送るという準備がなされ、そこには否応なく「自己」と対峙する空間が読み手自身に与えられているのである。
普段、私たちは実社会と精神世界、形而上的存在と形而下的な存在について考察する際に、実存を抽象化し精神世界・形而上的存在へと配慮を巡らせる。しかし、池澤はこれらの二値的存在に対して超然と俯瞰し、自己の視野領域を完全に自由な状態において叙述を進めていく。これは、以降の池澤作品のアルゴリズムを規定しているとも捉えられる。
無人島生活という非日常は、日常において自己を照らし出す一切の他者を排除し、既有認識(スキマー)に彩られた「自己」と生まれたままの自己とを向き合わせる機会であり、必然として厳しい概念的葛藤が立ちはだかる。その葛藤は、無人島生活という不自由さとの葛藤を遥かに凌ぐ試練を与えてくれる。そして、その葛藤を経て得たまったく新しい「自己」を獲得した時、メタファーとして提示される「成層圏」へと浮上する自分に気付くのである。
この作品を読み終えた時、思わず自身の認識を取り囲む「常識」や「あたりまえ」に疑問符を呈する自分に気付くのではないだろうか。このような、世間に蔓延る「常識化」のプロセスに対して精査しようとする態度こそは、これからの社会において最も求められる姿勢なのではないだろうか。

(国語科 浅井靖生)
![12201712[1]](https://blog-imgs-21-origin.fc2.com/s/a/t/satorukan2007/20080609190906.jpg)
マグロ漁の取材中に海へ転落した新聞記者―「彼」は漂流の後に無人島へと辿り着き、サバイバル生活を経て文明社会へと帰還する。しかし「彼」にはランボーのタフな肉体もインディー・ジョーンズの機智も備わっていない。さらに「彼」には、展開に従って明らかにされるべき「個性」も無い。つまりそこには、読み手が「彼」というカプセルに乗り込み、読解に従い無人島生活を送るという準備がなされ、そこには否応なく「自己」と対峙する空間が読み手自身に与えられているのである。
普段、私たちは実社会と精神世界、形而上的存在と形而下的な存在について考察する際に、実存を抽象化し精神世界・形而上的存在へと配慮を巡らせる。しかし、池澤はこれらの二値的存在に対して超然と俯瞰し、自己の視野領域を完全に自由な状態において叙述を進めていく。これは、以降の池澤作品のアルゴリズムを規定しているとも捉えられる。
無人島生活という非日常は、日常において自己を照らし出す一切の他者を排除し、既有認識(スキマー)に彩られた「自己」と生まれたままの自己とを向き合わせる機会であり、必然として厳しい概念的葛藤が立ちはだかる。その葛藤は、無人島生活という不自由さとの葛藤を遥かに凌ぐ試練を与えてくれる。そして、その葛藤を経て得たまったく新しい「自己」を獲得した時、メタファーとして提示される「成層圏」へと浮上する自分に気付くのである。
この作品を読み終えた時、思わず自身の認識を取り囲む「常識」や「あたりまえ」に疑問符を呈する自分に気付くのではないだろうか。このような、世間に蔓延る「常識化」のプロセスに対して精査しようとする態度こそは、これからの社会において最も求められる姿勢なのではないだろうか。

(国語科 浅井靖生)
![12201712[1]](https://blog-imgs-21-origin.fc2.com/s/a/t/satorukan2007/20080609190906.jpg)
2008-05-27 18:46 |
カテゴリ:学園
ヨースタイン・ゴルデル(Jostein Gaarder)
1952年、ノルウェーのオスロに生まれる。高校で哲学を教えるかたわら、児童・青少年向けの作品を書きつづけた。本書は『ソフィーの世界』は1991年の出版以来、世界各国で驚異的なベストセラーとなっている。現在は作家活動に専念している。主な著書に『カードミステリー』(徳間書店)、『アドヴェント・カレンダー』『ハロー?』(共にNHK出版)などがある。
須田 朗 (すだ あきら)
1947年、千葉県生まれ。中央大学文学部教授。哲学専攻。おもな著書に『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』(NHK出版)、編著書に『哲学の探究』(中央大学出版部)、訳書にヘンリッヒ『神の存在論的証明』、ガダマー『理論を讃えて』(共に法政大学出版局、共訳)、オニール『語りあう身体』(紀伊国屋書店)、アドルノ『否定弁証法』(作品社、共訳)などがある。
池田 香代子 (いけだ かよこ)
1948年、東京都生まれ。ドイツ文学者。口承文学研究家。おもな著書に『哲学のしずく』(河出書房新社)、訳書に『グリム童話(1~4)』(講談社)、ベラ・シャガール『空飛ぶベラ』(柏書房)、ビリンチ『猫たちの聖夜』、『猫たちの森』(共に早川書房)、共著書に、『ドイツ文学史』(放送大学教育振興会)、『ウィーン大研究』(春秋社)などがある。
ソフィーはごく普通の14歳の少女。
ある日、ソフィーのもとへ一通の手紙が舞い込んだ。
消印も差出人の名もないその手紙にはたった一行。
『あなたはだれ?』と書かれていた。
思いがけない問いかけにソフィーは改めて自分を見つめなおす。
「わたしっていったいだれなんだろう?」
今まで当たり前だと思っていたことが、ソフィーにはとても不思議なことのように思えてきた。
その日からソフィーの周りで奇妙な出来事が次々と起こり始めた・・・・・。(本書見開きより)
この本は私が高校生の頃に読み始め、面白さから大学時代、そして大人になった今でも読み返すほどに惹きつけられた本です。
ジャンルとしては「哲学」の本になろうかと思います。
「哲学」と聞いてしまうと、「難しい」「堅苦しい」といったイメージが浮びがちです。
昔から哲学者の数だけ哲学はあると言われてきました。
では哲学っていったい何でしょうか?・・・・・・・
一言で答えは出ません。前文を踏襲すれば哲学者の数だけ哲学があるわけですからね。ただ古今東西の哲学者の態度に共通して見られる点について『ソフィーの世界』ではこのように語られています。
今から二千年以上も前のギリシアの哲学者は、人間が「なんかへんだなぁ」と思ったのが哲学の始まりだ、と考えました。
人が生きているというのはなんておかしなことだろう、と思ったことから、哲学の問いが生まれた、というのです。
『ソフィーの世界 上巻 P,25』
いい哲学者になるためにたった一つ必要なのは、驚くという才能だ・・・・。
『ソフィーの世界』上巻P,27
哲学の出発点は、要するに「驚くこと」なんですね。
あらゆることに対して新鮮で批判的な目を常にもつこと、常識や科学や宗教が当たり前だと思っていること、暗黙のうちに前提にしていること、信じきってしまっていることを不思議に思ってみるという態度です。
・・・・・・これって考えてみると不思議だな、と思うとき、もうあなたは「哲学」を始めています。
ところで私たちのだれもが少しも疑わないことって何でしょうか?
それは「自分」と「世界」が存在するということです。
あまりにも当たり前すぎて、誰もそんなことを疑いませんが、本当は、自分がなぜ存在するのか、なぜ自分はこの自分なのか、世界が何であるのか、はすごく不思議なことなんですよ。
この世界と自分の存在の神秘を不思議に思うこと、これこそが「哲学」のはじまりなのだとこの本は教えてくれています。
本書はこういった古今東西の「哲学者」たちの考えに、ストーリー性を盛り込んだ内容で触れることが出来る作品です。
例えば「イデア説(論)」で有名な古代ギリシアの哲学者プラトン。
名前ぐらいは聞いたことがあるかもしれません。
『ソフィーの世界』では哲学者プラトンは主人公ソフィーにいくつか課題を出します。
1、ケーキ屋はなぜ五十個もの同じクッキーを焼けるのか?
2、なぜ馬はみんなそっくりなのか?
『ソフィーの世界』上巻 P,106
なんとも不思議な質問ですね。でも皆さん考えたことあるでしょうか?
同じ形のクッキーが出来るのは、つくる人が同じ「一つの型」で抜いたからです。目の前に出来上がっているクッキーは実はその型で抜かれたコピーなのですね。しかし誰もそのコピーを疑いもなく食べている日常があります。しかし本当の真実は「型」にこそあるとプラトンは考えたのです。なんとも分かりやすい例と解説です。「原型」に合わせて同じ形の多数のクッキーが作られる。プラトンはこうした考え方を自然界にも拡大しました。自然の五十頭の馬にも「原型」があるのでは?・・・
プラトンは、どうして自然界の現象はこんなに似ているのだろう、とびっくりして、わたしたちの身の回りにあるものの上か後ろには、かぎられた数の「型」があるはずだ、という結論にたっした。この「型」をプラトンは「イデア」と名づけた。・・・・あらゆる馬や豚や人間の背後には、馬のイデアや豚のイデアや人間のイデアがあるのだ。(中略)
さて結論だ。プラトンは感覚世界(我々が普段目にしているもの)の後ろには本当の世界がある、と考えた。これをプラトンは「イデア界」と名づけた。ここに永遠で不変のひな型、わたしたちが自然の中で出会う様々な現象の原型がある。この、あっと驚く考え方が、プラトンの「イデア説」だ。
『ソフィーの世界』上巻P, 115~116
『イデア論』。始めてこの言葉を聞いたとき、高校生だった自分にはどのような考えか正直、当時は理解できませんでした。しかしこの作品に出会って、なんとなくではあるけれどもイメージをつかむことが出来た、そんな記憶があります。(もっと詳しい説明は是非この本を読んでみてくださいね。)
あくまでもプラトンの例はひとつの紹介にすぎません。
本書ではたくさんの哲学者に出会えます。そしてその度ごとに、この時代の人はこう考えていた、この考え方は前に出てきたあの人の考え方に似ている、など新しい発見を知ることが出来るのです。
昔の人の考え方、時代観、はたまたその歴史を知ることが現在のわれわれ、そして未来を造ることを改めて感じさせられる作品です。現状に満足せずに常に次のことを思考せよと、大人になった今でも啓発させられる作品です。
自分も多角的な視野をもち、あっと驚くことの出来る「哲学者」で常にありたい・・・・・
最後にこの言葉でこの本の紹介を終わらせていただきます
三千年を解くすべを持たない者は闇の中、未熟なままに、その日その日を生きる。 ゲーテ
是非、本校の図書館で手にとって開くところから始めて下さい。中学生にも比較的読みやすい本です。

(社会科 古屋 剛)
![]() | ソフィーの世界―哲学者からの不思議な手紙 (1995/06) ヨースタイン ゴルデル |
2008-05-17 17:57 |
カテゴリ:学園
緒方貞子(おがた さだこ)1927年、東京生まれ。聖心女子大学文学部卒業後、アメリカに留学し、ジョージタウン大学で国際関係論修士号を、カリフォルニア大学で政治学博士号を取得。学位論文がアメリカ、次いで日本で出版され(『満州事変と政策の形成過程』原書房)、高く評価された。国際基督教大学準教授(1974-79)を経て80年、上智大学教授に就任。同大学国際関係研究所所長、外国語学部長などを務めた。この間、76年に日本人女性として初の国連公使となり、特命全権公使、国連人権委員会日本政府代表を歴任。90年の国連総会において第8代国連難民高等弁務官に選出され、2000年末まで10年にわたりその重責を担った。人道分野における卓越した貢献が高く評価され、内外から数多くの勲章および名誉学位を授与された。2003年からは、独立行政法人国際協力機構理事長として、精力的な活動を続けている。
緒方貞子。笑顔がとてもかわいらしい、小さな、ふつうのおばさん。
だが、いざ紛争地に赴けば、ヘルメットをかぶり、防弾チョッキを身につけ、武装した護衛を引き連れて、勇ましい姿で最前線を歩く。
あるときには、ルワンダ問題(最近では映画の題材にもなっている)での難民保護のため、反政府勢力にあらゆる方法で国際的圧力をかけ、コソヴォ問題解決のためには、ミロシェヴィッチ大統領に直接会って、ジェノサイド(民族大虐殺)をやめなさいと言い放つのである。
ベルリンの壁の崩壊(1989年)とソ連・東欧諸国の共産主義政権の瓦解による冷戦の終焉は、長年にわたる国際的な対立に解決をもたらしたのであるが、超大国による支配の緩みは、地域紛争や内戦の急増を招くことになった。地域内における他民族との積年の対立が一気に爆発し始めたのである。そのため、緒方貞子氏が国連難民高等弁務官を務めた1991年からの10年間は、まさに難民問題と人道支援の現場にとっては「激動の10年」といえる。
私(石田)も世界60カ国以上を旅し、多民族を抱える多くの途上国等を歩いてきたが、現地の人との会話のなか、特にアフリカ、中東地域、バルカン半島などでは国籍とともに民族・部族・宗教を尋ねられることがあったが、尋ねるときの目つき、面持ちが緊張しているように感じられた。これはその場にいないとわからない感覚なのかもしれない。他民族を排除するための追放・虐殺が戦争の結果にとどまらず、むしろそれ自体が戦争の目的となっていた地域では、その緊張もしょうがないのかもしれないと思った。
この著書では、私が政治経済の授業で扱う国際紛争の、命がけの現場の雰囲気や、国連難民高等弁務官の緒方貞子氏だからこそ目撃できた光景や裏話が記されている。また、人道支援活動を紛争の真っ只中で行ったうえでのさまざまな成功と失敗が描かれており、「政治の力」「軍の力」「国際的な利害」と人道活動との複雑な絡み合いが興味深い。
各国首脳や国連幹部らとの生々しいやりとりには、現場ならではの迫力があり、その場にいるような感覚になるが、特に、私の印象に残ったのは、緒方貞子氏のその強力なリーダーシップである。その彼女がこの著書のエピローグで、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)でのビジョンを以下のように語っている。
「~意義のある組織であろうとするならば、~機敏で、手際よく仕事をこなし、効果的で、急速に変化する環境に順応できなくてはなりません。」
現場主義の彼女らしい言葉である。背筋がのびる思いがした。

(社会科 石田剛)
緒方貞子。笑顔がとてもかわいらしい、小さな、ふつうのおばさん。
だが、いざ紛争地に赴けば、ヘルメットをかぶり、防弾チョッキを身につけ、武装した護衛を引き連れて、勇ましい姿で最前線を歩く。
あるときには、ルワンダ問題(最近では映画の題材にもなっている)での難民保護のため、反政府勢力にあらゆる方法で国際的圧力をかけ、コソヴォ問題解決のためには、ミロシェヴィッチ大統領に直接会って、ジェノサイド(民族大虐殺)をやめなさいと言い放つのである。
ベルリンの壁の崩壊(1989年)とソ連・東欧諸国の共産主義政権の瓦解による冷戦の終焉は、長年にわたる国際的な対立に解決をもたらしたのであるが、超大国による支配の緩みは、地域紛争や内戦の急増を招くことになった。地域内における他民族との積年の対立が一気に爆発し始めたのである。そのため、緒方貞子氏が国連難民高等弁務官を務めた1991年からの10年間は、まさに難民問題と人道支援の現場にとっては「激動の10年」といえる。
私(石田)も世界60カ国以上を旅し、多民族を抱える多くの途上国等を歩いてきたが、現地の人との会話のなか、特にアフリカ、中東地域、バルカン半島などでは国籍とともに民族・部族・宗教を尋ねられることがあったが、尋ねるときの目つき、面持ちが緊張しているように感じられた。これはその場にいないとわからない感覚なのかもしれない。他民族を排除するための追放・虐殺が戦争の結果にとどまらず、むしろそれ自体が戦争の目的となっていた地域では、その緊張もしょうがないのかもしれないと思った。
この著書では、私が政治経済の授業で扱う国際紛争の、命がけの現場の雰囲気や、国連難民高等弁務官の緒方貞子氏だからこそ目撃できた光景や裏話が記されている。また、人道支援活動を紛争の真っ只中で行ったうえでのさまざまな成功と失敗が描かれており、「政治の力」「軍の力」「国際的な利害」と人道活動との複雑な絡み合いが興味深い。
各国首脳や国連幹部らとの生々しいやりとりには、現場ならではの迫力があり、その場にいるような感覚になるが、特に、私の印象に残ったのは、緒方貞子氏のその強力なリーダーシップである。その彼女がこの著書のエピローグで、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)でのビジョンを以下のように語っている。
「~意義のある組織であろうとするならば、~機敏で、手際よく仕事をこなし、効果的で、急速に変化する環境に順応できなくてはなりません。」
現場主義の彼女らしい言葉である。背筋がのびる思いがした。

(社会科 石田剛)
![]() | 紛争と難民 緒方貞子の回想 (2006/03) 緒方 貞子 |
2008-03-27 21:08 |
カテゴリ:学園
梅田望夫(IT企業コンサルタント) 1960年-。慶応義塾大学工学部卒業。東京大学大学院情報科学科修士課程修了。1994年より米国シリコンバレーに住み、コンサルティング会社ミューズ・アソシエイツを創業。
教師にとっての3月は本の整理の月でもある。本の取捨選択をする中で『ウェブ進化論』が手に止まった。
この本が登場したのは2006年2月1日。みるみるランキングを上げていき、とうとうトップに躍り出た頃には書店を探しても手に入らないということもあった。国内でインターネット系の本がこれほどまでに人々に受け入れられた例はかつてなかった。
「ウェブ進化論」を「名作」というのはあまりに早急すぎるのかもしれない。ただ、どのくらい経過したら…と考えると、これまで紹介されてきた作品が50年~150年前のもの(!)。安心して「名作」と言うには最低であと50年の様子見が必要ということになる。
しかし、「ウェブ進化論」的に言えば、「あちら側」にあるものが「こちら側」に近づいてくれるのを待つのは無意味だろう。「あちら側」にあるはずの世界は、いつの間にか「こちら側」の周囲を当たり前のように取り囲む。世界は変わっている。その時、何が「名作」かを決めるのは、今現在の「こちら側」の価値観ではない。
今現在の価値観が、たとえどんな権威や支持を得ていようとも、その多くが自然に消滅してしまう運命にあるのならば、頼りになるのは自分自身の「直観」だけとなる。
やはり、インターネット発祥以来の情報革命の全体像を、初めて総括的に、しかも圧倒的な数の読者に提示しえたという功績は認めざるを得ないだろう。
2006年の2月初旬。この本を読みすすめながら、著者梅田氏のブログ(「My Life Between Silicon Valley and Japan」)を眺め、トラックバックの記事にも目を通す。正直、インターネット関連でこれほど一つひとつの文章にうなずき、納得できる本もしくはネット上の情報に出会ったことがなかった。トラックバックの中に、「ネット界で試行錯誤してきた中で漠然と考えてきたことを、霧が晴れるように整理してもらったような思い」(『こども省』)という記事を見つけたが、まったくの同感である。
ほとんど知らない土地で、直観だけを頼りに「いけそうなモノ」「面白いモノ」を鼻で嗅ぎ取りながら歩いていたところに、「この土地はこうなっているんだよ」と親切な案内図を渡してもらった。そんな感じである。そして、この本に一貫して流れている著者の考え方には、正直大いに勇気づけられた。
「もちろんウェブ進化についての語り口はいろいろあるだろう。でも、私は、そこにオプティミズムを貫いてみたかった。これから直面する難題を創造的に解決する力は、オプティミズムを前提とした試行錯誤以外からは生まれ得ないと信じるからである」(p.246)
この本の中でも述べられているが、この頃の日本国内のインターネット観は、善悪で言えば「悪」、開放性の「可能性」よりは「危険性」のほうに傾いていたのである。その状況は、圧倒的なインターネットの力が示す日常的な成果を前にしてずいぶんと改善されてきた。
その改善がさらに進んだ要因に、この本をきっかけに広く知られるようになる「Web2.0」という言葉がある。この新しい言葉は、なかなか説明するのも難しいにもかかわらず、新しい時代や社会の到来を予感させる言葉として好意的に迎え入れられた。この予感が人々のインターネットに対する感覚を「可能性」の方角へ向けさせた。
ここでは、「Web2.0」についてeベイの創業者ピエール・オミディヤーが語ったという答えを引用しよう。
「道具を人々の手に行き渡らせるんだ。皆が一緒に働いたり、共有したり、協働したりできる道具を。『人々は善だ』という信念から始めるんだ。そしてそれらが結びついたものも必然的に善に違いない。そう、それで世界が変わるはずだ。Web2.0とはそういうことなんだ」(P.122)
引用だけでは甚だ漠然としているかもしれないが、学園ホームページでご覧頂いている動画システムや画像アルバム、そしてブログを含めて、この「(Web2.0系の)道具」である。ただし、ブログを除いて、ネット上のさまざまなサービスは米国のものが圧倒的に進んでいる。だから、どうしても英語版しかないようなサービスを利用することになる。本音を言えば、日本のサービスの発想そのものが「Web2.0」以前に止まっており、基本的に高い費用がかかる。しかも「使えない」。
何かが違うのである。いったい何が違うのか。
「ウェブ進化論」はこの違いを、シリコンバレーの歴史を振り返りながら全体を俯瞰する視点から解き明かしている。「あちら側」と「こちら側」、グーグルVsマイクロソフト、オープンソースと従来型ソフトウェア、米国と日本、「知の世界の秩序の再編成」と「これまでの知の世界の秩序維持」といった切り口で2006年当時の状況が解明されていく。
特に、この本によってその凄さが広く知られるようになったのがグーグルの存在である。「増殖する地球上の膨大なデータをすべて整理し尽す」という理念をうちたて驚異的な成長を遂げるグーグル。梅田氏は「あちら側」の代表的企業としてその実力を紹介し、当時国内でIT企業と目されていた日本の楽天などの企業との違いを明示した。さらに、その独特の組織の在り方について次のように説明している。
グーグルの「優秀な人間が、泥仕事を厭わず、自分で手を動かす」という企業文化は、情報発電所構築においてグーグルが競争優位を維持し得る源泉の一つである。(P.72)
おそらく、このようなグーグルのあり方や理念の持ち方は、これからの若者たちにとっての理想の企業イメージとして定着していくのではないだろうか。私ですら、自分の実力を顧みず、そういった集団で働くことを夢見てしまうのである。昨年、学園による1名の募集に対して700名の応募があったという事実にも驚いたが、グーグルには世界中の若者たちから一日平均1500通以上の履歴書が送られてくるとのことである。
この本が出てから丸2年。かつて世界中の政府に衝撃を与えたと言われる「グーグル・アース」も今ではまったく当り前のものになってしまった。学園を住所で検索すると、校庭にいる人とその影の形まで確認できる。「あちら側」から「あいさつ代わりに」くりだされた「道具」は、すでにこちら側の世界でも常識となっている。その後の展開を見ても、世界はこの本が解明し、予測した方向へ確実に向かっているようである。
<社会科 金子 暁(さとる)>
教師にとっての3月は本の整理の月でもある。本の取捨選択をする中で『ウェブ進化論』が手に止まった。
この本が登場したのは2006年2月1日。みるみるランキングを上げていき、とうとうトップに躍り出た頃には書店を探しても手に入らないということもあった。国内でインターネット系の本がこれほどまでに人々に受け入れられた例はかつてなかった。
「ウェブ進化論」を「名作」というのはあまりに早急すぎるのかもしれない。ただ、どのくらい経過したら…と考えると、これまで紹介されてきた作品が50年~150年前のもの(!)。安心して「名作」と言うには最低であと50年の様子見が必要ということになる。
しかし、「ウェブ進化論」的に言えば、「あちら側」にあるものが「こちら側」に近づいてくれるのを待つのは無意味だろう。「あちら側」にあるはずの世界は、いつの間にか「こちら側」の周囲を当たり前のように取り囲む。世界は変わっている。その時、何が「名作」かを決めるのは、今現在の「こちら側」の価値観ではない。
今現在の価値観が、たとえどんな権威や支持を得ていようとも、その多くが自然に消滅してしまう運命にあるのならば、頼りになるのは自分自身の「直観」だけとなる。
やはり、インターネット発祥以来の情報革命の全体像を、初めて総括的に、しかも圧倒的な数の読者に提示しえたという功績は認めざるを得ないだろう。
2006年の2月初旬。この本を読みすすめながら、著者梅田氏のブログ(「My Life Between Silicon Valley and Japan」)を眺め、トラックバックの記事にも目を通す。正直、インターネット関連でこれほど一つひとつの文章にうなずき、納得できる本もしくはネット上の情報に出会ったことがなかった。トラックバックの中に、「ネット界で試行錯誤してきた中で漠然と考えてきたことを、霧が晴れるように整理してもらったような思い」(『こども省』)という記事を見つけたが、まったくの同感である。
ほとんど知らない土地で、直観だけを頼りに「いけそうなモノ」「面白いモノ」を鼻で嗅ぎ取りながら歩いていたところに、「この土地はこうなっているんだよ」と親切な案内図を渡してもらった。そんな感じである。そして、この本に一貫して流れている著者の考え方には、正直大いに勇気づけられた。
「もちろんウェブ進化についての語り口はいろいろあるだろう。でも、私は、そこにオプティミズムを貫いてみたかった。これから直面する難題を創造的に解決する力は、オプティミズムを前提とした試行錯誤以外からは生まれ得ないと信じるからである」(p.246)
この本の中でも述べられているが、この頃の日本国内のインターネット観は、善悪で言えば「悪」、開放性の「可能性」よりは「危険性」のほうに傾いていたのである。その状況は、圧倒的なインターネットの力が示す日常的な成果を前にしてずいぶんと改善されてきた。
その改善がさらに進んだ要因に、この本をきっかけに広く知られるようになる「Web2.0」という言葉がある。この新しい言葉は、なかなか説明するのも難しいにもかかわらず、新しい時代や社会の到来を予感させる言葉として好意的に迎え入れられた。この予感が人々のインターネットに対する感覚を「可能性」の方角へ向けさせた。
ここでは、「Web2.0」についてeベイの創業者ピエール・オミディヤーが語ったという答えを引用しよう。
「道具を人々の手に行き渡らせるんだ。皆が一緒に働いたり、共有したり、協働したりできる道具を。『人々は善だ』という信念から始めるんだ。そしてそれらが結びついたものも必然的に善に違いない。そう、それで世界が変わるはずだ。Web2.0とはそういうことなんだ」(P.122)
引用だけでは甚だ漠然としているかもしれないが、学園ホームページでご覧頂いている動画システムや画像アルバム、そしてブログを含めて、この「(Web2.0系の)道具」である。ただし、ブログを除いて、ネット上のさまざまなサービスは米国のものが圧倒的に進んでいる。だから、どうしても英語版しかないようなサービスを利用することになる。本音を言えば、日本のサービスの発想そのものが「Web2.0」以前に止まっており、基本的に高い費用がかかる。しかも「使えない」。
何かが違うのである。いったい何が違うのか。
「ウェブ進化論」はこの違いを、シリコンバレーの歴史を振り返りながら全体を俯瞰する視点から解き明かしている。「あちら側」と「こちら側」、グーグルVsマイクロソフト、オープンソースと従来型ソフトウェア、米国と日本、「知の世界の秩序の再編成」と「これまでの知の世界の秩序維持」といった切り口で2006年当時の状況が解明されていく。
特に、この本によってその凄さが広く知られるようになったのがグーグルの存在である。「増殖する地球上の膨大なデータをすべて整理し尽す」という理念をうちたて驚異的な成長を遂げるグーグル。梅田氏は「あちら側」の代表的企業としてその実力を紹介し、当時国内でIT企業と目されていた日本の楽天などの企業との違いを明示した。さらに、その独特の組織の在り方について次のように説明している。
グーグルの「優秀な人間が、泥仕事を厭わず、自分で手を動かす」という企業文化は、情報発電所構築においてグーグルが競争優位を維持し得る源泉の一つである。(P.72)
おそらく、このようなグーグルのあり方や理念の持ち方は、これからの若者たちにとっての理想の企業イメージとして定着していくのではないだろうか。私ですら、自分の実力を顧みず、そういった集団で働くことを夢見てしまうのである。昨年、学園による1名の募集に対して700名の応募があったという事実にも驚いたが、グーグルには世界中の若者たちから一日平均1500通以上の履歴書が送られてくるとのことである。
この本が出てから丸2年。かつて世界中の政府に衝撃を与えたと言われる「グーグル・アース」も今ではまったく当り前のものになってしまった。学園を住所で検索すると、校庭にいる人とその影の形まで確認できる。「あちら側」から「あいさつ代わりに」くりだされた「道具」は、すでにこちら側の世界でも常識となっている。その後の展開を見ても、世界はこの本が解明し、予測した方向へ確実に向かっているようである。
<社会科 金子 暁(さとる)>
![]() | ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書) (2006/02/07) 梅田 望夫 |
2008-03-19 19:37 |
カテゴリ:学園
丸山真男(政治学者、思想史家)1914年 - 1996年。第一次世界大戦が始まる1914年、ジャーナリストの家庭に生まれる。大正デモクラシーの潮流の中に育ち、一高の三年生時に唯物論研究会の講演に赴いたために検挙される。助教授の地位にありながら召集され、広島で被爆。敗戦の翌年に発表した『超国家主義の論理と心理』以降、1960年代前半まで戦後日本の民主主義を代表する論客であり続けた。
丸山真男は学者として、オピニオンリーダーとして、戦後民主主義の思想と行動を牽引した。
民主主義が絶え間ない批判と対決によって発展し浸透するものである以上、その丸山真男といえども永遠に民主主義のリーダーであり続けることはできない。
しかし、「日本の思想」が発刊されてから約50年、再び読み直してみた時に、一文一文の背後から滲み出てくる学者としての姿勢と思想を語る者としての緊張感はますます輝いて見える。
丸山真男の文章には必ず彼の責任感と緊張感が寄り添っている。私がこの本を紹介するのは、このような姿勢を貫こうとする学者がいるということを、今の生徒諸君にも知ってもらいたいからである。
さらに注目してもらいたいのは、彼が古今の人物たちから抽出してくる文章の的確さである。それは「援用」というレベルを超えて、読者が著者と一緒になって論点のど真ん中を射抜く感覚を体験させてくれる。
その引用は、書いた人物の立ち位置や歴史的役割まで十分視野に入れているため、論敵たらんとする者は相当に無理な姿勢から弓を放たなければならなくなる。
そういうレベルで書かれているのが、この「日本の思想」である。
丸山真男が「理論家」の姿勢を語る一節がある。
理論家の眼は、一方厳密な抽象の操作に注がれながら、他方自己の対象の外辺に無限の曠野をなし、その涯は薄明の中に消えてゆく現実に対するある断念と、操作の過程からこぼれ落ちてゆく素材に対するいとおしみがそこに絶えず伴っている。この断念と残されたものへの感覚が自己の知的操作に対する厳しい倫理意識を培養し、さらにエネルギッシュに理論化を推し進めてゆこうとする衝動を喚び起すのである。(P.60)
おそらく、これは丸山真男自身の姿勢の説明でもあるのだろう。
丸山真男が、その存在の大きさゆえにさまざまな立場から批判されたことは容易に想像できる。それらの批判に取り合わなかったことが、彼の権威をむしろ高める結果になったという。取り合わなかったのは、文章があらゆる批判に耐えられるように計算されており、すべてが想定の範囲内だったからではないかと思えてくる。
かつて丸山真男は、小林秀雄などと並んで中高生の段階で登り始めなければならない知的な壁であった。私たちにとって、彼の履歴や時代状況との関わり方といったことがらは二の次。とにかく、文章を読むことに精一杯で、それ以上に頭を使う余裕はなかった。
時代状況は大きく変わった。この本の中に登場する名詞の多くや現実の雰囲気も遠い昔のことになってしまった。今の中高生が読んだ時に、何度頭の中に「?」が浮かぶことだろう。
しかし、そういった時代の制約をまともに受けながらも、丸山真男は読むべきである。人間が知的に成長するには経験したことがないほど見上げる相手との出会いと格闘が必要になる。
その格闘の相手が丸山真男であったら、それはいかにも広尾学園らしいと思う。
<社会科 金子 暁(さとる)>
丸山真男は学者として、オピニオンリーダーとして、戦後民主主義の思想と行動を牽引した。
民主主義が絶え間ない批判と対決によって発展し浸透するものである以上、その丸山真男といえども永遠に民主主義のリーダーであり続けることはできない。
しかし、「日本の思想」が発刊されてから約50年、再び読み直してみた時に、一文一文の背後から滲み出てくる学者としての姿勢と思想を語る者としての緊張感はますます輝いて見える。
丸山真男の文章には必ず彼の責任感と緊張感が寄り添っている。私がこの本を紹介するのは、このような姿勢を貫こうとする学者がいるということを、今の生徒諸君にも知ってもらいたいからである。
さらに注目してもらいたいのは、彼が古今の人物たちから抽出してくる文章の的確さである。それは「援用」というレベルを超えて、読者が著者と一緒になって論点のど真ん中を射抜く感覚を体験させてくれる。
その引用は、書いた人物の立ち位置や歴史的役割まで十分視野に入れているため、論敵たらんとする者は相当に無理な姿勢から弓を放たなければならなくなる。
そういうレベルで書かれているのが、この「日本の思想」である。
丸山真男が「理論家」の姿勢を語る一節がある。
理論家の眼は、一方厳密な抽象の操作に注がれながら、他方自己の対象の外辺に無限の曠野をなし、その涯は薄明の中に消えてゆく現実に対するある断念と、操作の過程からこぼれ落ちてゆく素材に対するいとおしみがそこに絶えず伴っている。この断念と残されたものへの感覚が自己の知的操作に対する厳しい倫理意識を培養し、さらにエネルギッシュに理論化を推し進めてゆこうとする衝動を喚び起すのである。(P.60)
おそらく、これは丸山真男自身の姿勢の説明でもあるのだろう。
丸山真男が、その存在の大きさゆえにさまざまな立場から批判されたことは容易に想像できる。それらの批判に取り合わなかったことが、彼の権威をむしろ高める結果になったという。取り合わなかったのは、文章があらゆる批判に耐えられるように計算されており、すべてが想定の範囲内だったからではないかと思えてくる。
かつて丸山真男は、小林秀雄などと並んで中高生の段階で登り始めなければならない知的な壁であった。私たちにとって、彼の履歴や時代状況との関わり方といったことがらは二の次。とにかく、文章を読むことに精一杯で、それ以上に頭を使う余裕はなかった。
時代状況は大きく変わった。この本の中に登場する名詞の多くや現実の雰囲気も遠い昔のことになってしまった。今の中高生が読んだ時に、何度頭の中に「?」が浮かぶことだろう。
しかし、そういった時代の制約をまともに受けながらも、丸山真男は読むべきである。人間が知的に成長するには経験したことがないほど見上げる相手との出会いと格闘が必要になる。
その格闘の相手が丸山真男であったら、それはいかにも広尾学園らしいと思う。
<社会科 金子 暁(さとる)>
![]() | 日本の思想 (岩波新書) (1961/11) 丸山 真男 |
2008-03-07 11:08 |
カテゴリ:学園
草野心平(詩人)1903年(明治36年)5月12日 - 1988年(昭和63年)11月12日。福島県上小川村(現・いわき市小川町)出身。若くして夭折した兄・民平の残した詩に影響を受け、詩を書き始める。青春時代の一時、広尾学園に近い天現寺周辺の下宿屋に住み、のちに麻布十番で屋台の焼鳥屋を開業した時もある。高村光太郎や萩原朔太郎らと親交を結び、宮沢賢治、八木重吉らの紹介に尽力。高橋新吉、中原中也らの同人とともに「歴程」を創刊している。
草野心平は「蛙の詩人」であり、「富士の詩人」である。(*)
大正の末、まだ無名であった宮沢賢治を「世界第一級の天才」と紹介し、自らは心平ワールドともいえる孤高独自の世界を築き上げた。
その表現は、子供が驚きや発見を言葉にしようとして出来ない時の歯噛みにも似ている。
世界を、洗練され、洒落た言葉で人々に伝えるのも詩であるが、心平のようにあまりに直截的に、かつ直感的に人々に伝えようとするのもまた詩である。
ああ自分は。
幾度も幾度もの対陣から。
ささやかながら小さな歌を歌ってきた。
しかもその讃嘆の遙かとほくに。
遙かとほくに。
ギーンたる。
不尽の肉体。
しい白い大精神。
(『富士山』作品第参より抜粋)
ここに合理性や装飾といった要素はどれだけ見出せるだろうか。あるのは心平の伝えたいという必死さである。その必死さから生まれる言葉に、心平の歯ぎしりを感じ、その向こうにある心平の世界に思いを馳せる。
冬眠
●
『第百階級』より
この詩人を、私は一度だけ見かけたことがある。地元の図書館に立ち寄った時、出版記念の催しでもあったのだろうか、ソファに腰掛けている詩人がいた。和服を着たその姿は鮮明に記憶に残った。
学生時代、一度でも自分の目で見たということの影響は大きい。以来、本屋で草野心平の名前があると本能的に手を伸ばすようになった。
久しぶりに帰省した時、小さい頃から通いなれた田んぼの中の一本道を歩いていた。誰もすれ違う人のない夜だった。
足もとの田んぼの底から、仰ぎ見る夜空まですべてを蛙の声が包みこんだ。その瞬間、心平の真に伝えたかった世界に触れたと思った。
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
「誕生祭」という詩の最後はこのフレーズを25回にわたって繰り返している。なんでそんなに…と正直思っていた。
けれども、実際に蛙の声がすべてを満たす世界に身を置いた瞬間、心平の歯噛みと私の歯噛みとが重なったのである。
「その通り。その通り。そうでなければいけない。」
そう一人頷きながら、蛙の宇宙、心平の世界に身をまかせるように歩いた。
(*本人はこう呼ばれるのが好きではないと自ら言っている。)
<社会科 金子 暁(さとる)>
草野心平は「蛙の詩人」であり、「富士の詩人」である。(*)
大正の末、まだ無名であった宮沢賢治を「世界第一級の天才」と紹介し、自らは心平ワールドともいえる孤高独自の世界を築き上げた。
その表現は、子供が驚きや発見を言葉にしようとして出来ない時の歯噛みにも似ている。
世界を、洗練され、洒落た言葉で人々に伝えるのも詩であるが、心平のようにあまりに直截的に、かつ直感的に人々に伝えようとするのもまた詩である。
ああ自分は。
幾度も幾度もの対陣から。
ささやかながら小さな歌を歌ってきた。
しかもその讃嘆の遙かとほくに。
遙かとほくに。
ギーンたる。
不尽の肉体。
しい白い大精神。
(『富士山』作品第参より抜粋)
ここに合理性や装飾といった要素はどれだけ見出せるだろうか。あるのは心平の伝えたいという必死さである。その必死さから生まれる言葉に、心平の歯ぎしりを感じ、その向こうにある心平の世界に思いを馳せる。
冬眠
●
『第百階級』より
この詩人を、私は一度だけ見かけたことがある。地元の図書館に立ち寄った時、出版記念の催しでもあったのだろうか、ソファに腰掛けている詩人がいた。和服を着たその姿は鮮明に記憶に残った。
学生時代、一度でも自分の目で見たということの影響は大きい。以来、本屋で草野心平の名前があると本能的に手を伸ばすようになった。
久しぶりに帰省した時、小さい頃から通いなれた田んぼの中の一本道を歩いていた。誰もすれ違う人のない夜だった。
足もとの田んぼの底から、仰ぎ見る夜空まですべてを蛙の声が包みこんだ。その瞬間、心平の真に伝えたかった世界に触れたと思った。
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
「誕生祭」という詩の最後はこのフレーズを25回にわたって繰り返している。なんでそんなに…と正直思っていた。
けれども、実際に蛙の声がすべてを満たす世界に身を置いた瞬間、心平の歯噛みと私の歯噛みとが重なったのである。
「その通り。その通り。そうでなければいけない。」
そう一人頷きながら、蛙の宇宙、心平の世界に身をまかせるように歩いた。
(*本人はこう呼ばれるのが好きではないと自ら言っている。)
<社会科 金子 暁(さとる)>
![]() | 草野心平詩集 (岩波文庫) (2003/04/16) 草野 心平 |
2008-02-21 16:09 |
カテゴリ:学園
アンリ・マティス(画家)1869年(明治2年)~1954年(昭和29年)
1969年12月31日、フランス・カトー・カンブレジに生まれる。
1889年から翌年にかけて故郷の法律事務所に勤める。1891年、画家になること
を決意。パリに出て国立美術学校のギュスターブ・モロー教室などで学ぶ。
1905年にはその作品の激しい色彩の表現から「野獣(フォーヴ)」と非難され騒ぎになる。フォービズムを代表する画家であり、近代のピカソ以降の画家に大きく影響をしたアーティストである。

今回は本でないものを私は紹介したい。数多く紹介したいものはありますが、今後シリーズ化して様々な面から芸術に触れていただきたいと思います。
アンリ・マティスというと画家として有名で、フォービズムを代表する画家であり、その色使いに私はデザイン的でリズミカルなものを強く感じていました。特に晩年の作品は、マティス自身が大病をして、絵筆を握らなくなり、色紙などを使っての制作にその構成の上手さやリズムを感じることができます。また、南フランスを訪ねたときにはマティスの描く作品の中にその風土を体験することができました。
ちょうど今から11年前に、私は母校(大学)の給付金で、1年間のフランス留学をしていた時期に訪れることのできたマティスの教会を紹介したいと思います。画家なのに教会を作ったの?と思っている方も多いかもしれませんが、現在でもアートプロデューサーという仕事があるように、教会に関するすべてのプロデュースをマティスはしていたのです。
8月の暑い日に(日本ほど暑くなく湿度が少ない)南フランスのヴァンスにある中の少し高台にある教会を訪ねました。教会が開くには早い時間に到着し、その近辺の空気を味わっていましたが、教会も観光名所になり、入場料を払っての見学があることに少しだけがっかりとしていました。
さて、門が開き入場料を払い「さあ」と思っていると、若い牧師さんに案内をしていただけるということでした。
教会の歴史を聞きながら教会の中央にゆき、礼拝堂に入った瞬間、「神様いるかも・・・」とおもわず考えてしまいました。入場前のがっかりした気持ちは吹き飛んでいきました。
礼拝堂には特に具体的に象徴するものはないのですが、マティスが作り上げたステンドグラスに南仏特有の日差しが教会内に入り、その空間が、私自身をとてもあたたかく包み込んでくれているように感じたからそう思ったのかもしれません。
ステンドグラスなどはとてもはっきりとした色使いがしてあり、今でこそ落ち着いた感じではありますが、制作当時はとても派手だったと思われます。また、キリストや旧約聖書の話を簡素に描いているあたりは、マティスの人間本来のもつ純粋なところを浮き彫りにしている気がします。司祭の洋服もマティスは手がけていて、そのデザイン性がとても美しく感じられました。
この教会を訪ねたあと、マティスは画家でありながら、すべてをプロデュースできたデザイナーでもあったこと。まだ、デザインという言葉がない時代に新しい取り組みがされていたことを思いました。
現代においては理論的にモノゴトを考えることが必要だと思いますが、逆に、感じることの重要性を知った大切な時間でした。
今すぐにというわけにはいかないと思いますが、将来、機会があれば南フランスの風土、マティスの思いを感じに行かれてみてください。


(美術科 土田義昌)
1969年12月31日、フランス・カトー・カンブレジに生まれる。
1889年から翌年にかけて故郷の法律事務所に勤める。1891年、画家になること
を決意。パリに出て国立美術学校のギュスターブ・モロー教室などで学ぶ。
1905年にはその作品の激しい色彩の表現から「野獣(フォーヴ)」と非難され騒ぎになる。フォービズムを代表する画家であり、近代のピカソ以降の画家に大きく影響をしたアーティストである。

今回は本でないものを私は紹介したい。数多く紹介したいものはありますが、今後シリーズ化して様々な面から芸術に触れていただきたいと思います。
アンリ・マティスというと画家として有名で、フォービズムを代表する画家であり、その色使いに私はデザイン的でリズミカルなものを強く感じていました。特に晩年の作品は、マティス自身が大病をして、絵筆を握らなくなり、色紙などを使っての制作にその構成の上手さやリズムを感じることができます。また、南フランスを訪ねたときにはマティスの描く作品の中にその風土を体験することができました。
ちょうど今から11年前に、私は母校(大学)の給付金で、1年間のフランス留学をしていた時期に訪れることのできたマティスの教会を紹介したいと思います。画家なのに教会を作ったの?と思っている方も多いかもしれませんが、現在でもアートプロデューサーという仕事があるように、教会に関するすべてのプロデュースをマティスはしていたのです。
8月の暑い日に(日本ほど暑くなく湿度が少ない)南フランスのヴァンスにある中の少し高台にある教会を訪ねました。教会が開くには早い時間に到着し、その近辺の空気を味わっていましたが、教会も観光名所になり、入場料を払っての見学があることに少しだけがっかりとしていました。
さて、門が開き入場料を払い「さあ」と思っていると、若い牧師さんに案内をしていただけるということでした。
教会の歴史を聞きながら教会の中央にゆき、礼拝堂に入った瞬間、「神様いるかも・・・」とおもわず考えてしまいました。入場前のがっかりした気持ちは吹き飛んでいきました。
礼拝堂には特に具体的に象徴するものはないのですが、マティスが作り上げたステンドグラスに南仏特有の日差しが教会内に入り、その空間が、私自身をとてもあたたかく包み込んでくれているように感じたからそう思ったのかもしれません。
ステンドグラスなどはとてもはっきりとした色使いがしてあり、今でこそ落ち着いた感じではありますが、制作当時はとても派手だったと思われます。また、キリストや旧約聖書の話を簡素に描いているあたりは、マティスの人間本来のもつ純粋なところを浮き彫りにしている気がします。司祭の洋服もマティスは手がけていて、そのデザイン性がとても美しく感じられました。
この教会を訪ねたあと、マティスは画家でありながら、すべてをプロデュースできたデザイナーでもあったこと。まだ、デザインという言葉がない時代に新しい取り組みがされていたことを思いました。
現代においては理論的にモノゴトを考えることが必要だと思いますが、逆に、感じることの重要性を知った大切な時間でした。
今すぐにというわけにはいかないと思いますが、将来、機会があれば南フランスの風土、マティスの思いを感じに行かれてみてください。


(美術科 土田義昌)
2008-02-12 11:11 |
カテゴリ:学園
夏目 漱石(作家) 1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日。近代日本を代表する小説家、評論家。本名は金之助。『吾輩は猫である』『こゝろ』など永遠に読み継がれる作品を残した。森鴎外と双璧をなす明治・大正時代の大文豪である。松山中学の教師を務めた後、イギリスへ留学。帰国後、『吾輩は猫である』を発表して一躍評判をとり、『坊っちゃん』を書いた。
「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている…」
齋藤孝の「声に出して読みたい日本語」にも載っている有名な出だしだ。
この出だしだけなら聞いたことがあるという人も多いのではないだろうか?
中学生の夏、読書感想文の課題図書として出逢ったのが「坊ちゃん」だった。
夏目漱石という明治の文豪の名前を聞くだけで正直うんざりしたものだ。
ところが読み始めてみると歯切れのいい文章にすぐ夢中になった。
出だしの後に、小学生の時分「いくら威張ってもそこから飛び降りることはできまい」とはやされ学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰をぬかしたエピソードが続く。
父親に「二階から飛び降りたぐらいで腰をぬかす奴があるか」と怒られ「この次は抜かさずに飛んで見せます」とキッパリ言い返すあたり、坊ちゃんの性分がうかがえてついニヤけてしまう。なんとも小気味好い。
とにかく喧嘩っ早く直情怪行の坊ちゃんが、物理学校をなんとか卒業しマッチ箱のような汽車に乗って四国の旧制中学に数学教師として赴任したところから物語は動き始める。
校長は狸、教頭は赤シャツ、英語教師はうらなり、数学は山嵐、画家はのだいこ。
赴任したばかりの坊ちゃんが同僚教師につけたあだ名だが、この本を読んで以来、そのイメージに似た人を見付けると「あっ、赤シャツだ!(腹黒い)」「この人、のだいこ(ゴマすり男)みたい…」とつい心の中で思ってしまう。
読書の楽しみは想像することだ。物語に引き込まれるほど自分の中で登場人物や風景が独自にイメージされる。挿絵などない小説は尚更だ。そこが視覚から入って先に誰かのイメージが植え付けられてしまう映画やマンガにはない面白さだと思う。
「それはバッタやのうて、イナゴぞなもし」
宿直の時、布団に大量のバッタを入れられた坊ちゃんが生徒を吊るし上げるとこんな言葉が返ってきた。べらんめい口調の坊ちゃんと伊予弁丸出しの生徒達とのやりとりも面白い。
大食いの坊ちゃんが天麩羅蕎麦を4杯たいらげると翌日黒板に「天麩羅先生」と書かれ、団子を2皿食べると「団子2皿七銭」と書かれる。温泉で泳ぐと「湯の中で泳ぐべからず」と貼り札をされ、赤手拭いをぶら下げて歩いていると「赤手拭い」と呼ばれる。
東京から来た新米教師に興味津々な生徒達があの手この手で試そうとする姿は、現代の学校と少しも変わらないではないか。これが100年以上も前に書かれたものとは到底思えない。娯楽性だけでなく日本人の性質もよく表していて、いつの時代に読んでも楽しめる。それがこの作品最大の魅力なのかもしれない。
痛快な青春小説のように思えるが推理的要素もある。赤シャツとのだいこは当初からうさんくさいし山嵐は敵なのか味方なのかわからない。どうもうさんくさい人間にはめられてる感もある。それらが文学の香り高く綴られている。結末は読んでからのお楽しみだ。
「後生だから、どうか坊ちゃんのお家のお墓に入れてください」
どんな悪さをしてもそれを認め盲目的ともいえる愛情で包み込んだ下女の「清」が亡くなる間際に坊ちゃんにお願いしたひとことだ。
「だから清の墓は小日向の養源寺にある」でこの小説は終わっている。
しみじみとした読後感の中で、もう一度最初から読み返してみたくなる一冊。
「名作は色あせない…」
ふと、そんな言葉が頭の中に浮かんだ。
<図書館 曽我部容子>
「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている…」
齋藤孝の「声に出して読みたい日本語」にも載っている有名な出だしだ。
この出だしだけなら聞いたことがあるという人も多いのではないだろうか?
中学生の夏、読書感想文の課題図書として出逢ったのが「坊ちゃん」だった。
夏目漱石という明治の文豪の名前を聞くだけで正直うんざりしたものだ。
ところが読み始めてみると歯切れのいい文章にすぐ夢中になった。
出だしの後に、小学生の時分「いくら威張ってもそこから飛び降りることはできまい」とはやされ学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰をぬかしたエピソードが続く。
父親に「二階から飛び降りたぐらいで腰をぬかす奴があるか」と怒られ「この次は抜かさずに飛んで見せます」とキッパリ言い返すあたり、坊ちゃんの性分がうかがえてついニヤけてしまう。なんとも小気味好い。
とにかく喧嘩っ早く直情怪行の坊ちゃんが、物理学校をなんとか卒業しマッチ箱のような汽車に乗って四国の旧制中学に数学教師として赴任したところから物語は動き始める。
校長は狸、教頭は赤シャツ、英語教師はうらなり、数学は山嵐、画家はのだいこ。
赴任したばかりの坊ちゃんが同僚教師につけたあだ名だが、この本を読んで以来、そのイメージに似た人を見付けると「あっ、赤シャツだ!(腹黒い)」「この人、のだいこ(ゴマすり男)みたい…」とつい心の中で思ってしまう。
読書の楽しみは想像することだ。物語に引き込まれるほど自分の中で登場人物や風景が独自にイメージされる。挿絵などない小説は尚更だ。そこが視覚から入って先に誰かのイメージが植え付けられてしまう映画やマンガにはない面白さだと思う。
「それはバッタやのうて、イナゴぞなもし」
宿直の時、布団に大量のバッタを入れられた坊ちゃんが生徒を吊るし上げるとこんな言葉が返ってきた。べらんめい口調の坊ちゃんと伊予弁丸出しの生徒達とのやりとりも面白い。
大食いの坊ちゃんが天麩羅蕎麦を4杯たいらげると翌日黒板に「天麩羅先生」と書かれ、団子を2皿食べると「団子2皿七銭」と書かれる。温泉で泳ぐと「湯の中で泳ぐべからず」と貼り札をされ、赤手拭いをぶら下げて歩いていると「赤手拭い」と呼ばれる。
東京から来た新米教師に興味津々な生徒達があの手この手で試そうとする姿は、現代の学校と少しも変わらないではないか。これが100年以上も前に書かれたものとは到底思えない。娯楽性だけでなく日本人の性質もよく表していて、いつの時代に読んでも楽しめる。それがこの作品最大の魅力なのかもしれない。
痛快な青春小説のように思えるが推理的要素もある。赤シャツとのだいこは当初からうさんくさいし山嵐は敵なのか味方なのかわからない。どうもうさんくさい人間にはめられてる感もある。それらが文学の香り高く綴られている。結末は読んでからのお楽しみだ。
「後生だから、どうか坊ちゃんのお家のお墓に入れてください」
どんな悪さをしてもそれを認め盲目的ともいえる愛情で包み込んだ下女の「清」が亡くなる間際に坊ちゃんにお願いしたひとことだ。
「だから清の墓は小日向の養源寺にある」でこの小説は終わっている。
しみじみとした読後感の中で、もう一度最初から読み返してみたくなる一冊。
「名作は色あせない…」
ふと、そんな言葉が頭の中に浮かんだ。
<図書館 曽我部容子>
![]() | (1950/01) 夏目 漱石 |
2008-02-03 23:58 |
カテゴリ:学園
ツルゲーネフ(作家) 1818年11月9日-1883年9月3日。ロシア中部オリョールの地主貴族の家庭の次男として生まれる。19世紀のロシアの代表的な小説家の一人であり、ここで取り上げた『父と子』も19世紀ロシアの最高傑作の一つとされる。日本では二葉亭四迷によってその作品が紹介され、国木田独歩や田山花袋らの自然主義に大きな影響を与えている。
まったくの勘違いであった。
姉の読んでいた漫画版の「初恋」。
その「初恋」のタイトルを覚えておらず、作家名であるツルゲーネフだけが記憶にあった。ストーリーが、少年の恋した相手が実は父の…というものだったので、そこから推測して『父と子』に間違いないと考えたのだ。
さっそく新潮文庫版を読み始めて、「どうもこれは違うな」と思ったが、とにかく最後まで読み通した。
文学作品というものを読み通さねばという思いが、その時あった。
読み終わった瞬間、体の内側から湧き起こった充実感と幸福感。それまでの人生で初めて味わった知的な興奮。その時の内から湧き出した感動は今でも忘れられない。
思い出して恵比寿にある有隣堂の文庫本コーナーに行ってみた。
『父と子』はあった。
新潮文庫版が1冊だけ、ロシア作家のコーナーに鎮座していた。さらに、手にとって表紙を見て驚く。あの30数年前に手に取った表紙と、全く変わらない装丁。
記憶に残っていたのは読み終えた時の感覚だけ。人物名もストーリーも見事に覚えてなかった。
新時代の申し子である「ニヒリスト」のバザーロフを連れて、彼から影響を受けるアルカージイが帰郷するところから物語は始まる。久しぶりに会った息子たちに戸惑うアルカージイの父と伯父。その彼らもかつては新時代の人であった
そして、アンナ・セルゲーエヴナとの出会いとバザーロフの失恋。そして、この作品を牽引し続けたバザーロフの悲劇的な…。
やはり、ラストは見事だと思う。
新時代を象徴する若い世代が、旧世代の戸惑いを横目で憐れみながら突き進む。その若い群像を時代の潮流が有無を言わせず飲み込んでいく。
その奔流を作家は静かに見つめている。
ツルゲ―ネフは、結果として、この作品で新しい時代を先導したのだそうだが、彼はこの作品を書くことで自分の時代的な使命を探ろうとしていたのではないか。
そう思えてくる。
しかし、最初の出会いから三十年以上経つにもかかわらず、こっちはどうかと言えば…、またもや見事に奔流に飲まれてしまったのである。 それもまた幸福な体験ではあった。
![mini010column_img01[1]](https://blog-imgs-17-origin.fc2.com/s/a/t/satorukan2007/20080212115628.jpg)
<社会科 金子 暁(さとる)>
まったくの勘違いであった。
姉の読んでいた漫画版の「初恋」。
その「初恋」のタイトルを覚えておらず、作家名であるツルゲーネフだけが記憶にあった。ストーリーが、少年の恋した相手が実は父の…というものだったので、そこから推測して『父と子』に間違いないと考えたのだ。
さっそく新潮文庫版を読み始めて、「どうもこれは違うな」と思ったが、とにかく最後まで読み通した。
文学作品というものを読み通さねばという思いが、その時あった。
読み終わった瞬間、体の内側から湧き起こった充実感と幸福感。それまでの人生で初めて味わった知的な興奮。その時の内から湧き出した感動は今でも忘れられない。
思い出して恵比寿にある有隣堂の文庫本コーナーに行ってみた。
『父と子』はあった。
新潮文庫版が1冊だけ、ロシア作家のコーナーに鎮座していた。さらに、手にとって表紙を見て驚く。あの30数年前に手に取った表紙と、全く変わらない装丁。
記憶に残っていたのは読み終えた時の感覚だけ。人物名もストーリーも見事に覚えてなかった。
新時代の申し子である「ニヒリスト」のバザーロフを連れて、彼から影響を受けるアルカージイが帰郷するところから物語は始まる。久しぶりに会った息子たちに戸惑うアルカージイの父と伯父。その彼らもかつては新時代の人であった
そして、アンナ・セルゲーエヴナとの出会いとバザーロフの失恋。そして、この作品を牽引し続けたバザーロフの悲劇的な…。
やはり、ラストは見事だと思う。
新時代を象徴する若い世代が、旧世代の戸惑いを横目で憐れみながら突き進む。その若い群像を時代の潮流が有無を言わせず飲み込んでいく。
その奔流を作家は静かに見つめている。
ツルゲ―ネフは、結果として、この作品で新しい時代を先導したのだそうだが、彼はこの作品を書くことで自分の時代的な使命を探ろうとしていたのではないか。
そう思えてくる。
しかし、最初の出会いから三十年以上経つにもかかわらず、こっちはどうかと言えば…、またもや見事に奔流に飲まれてしまったのである。 それもまた幸福な体験ではあった。
![mini010column_img01[1]](https://blog-imgs-17-origin.fc2.com/s/a/t/satorukan2007/20080212115628.jpg)
<社会科 金子 暁(さとる)>
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2008-01-29 08:07 |
カテゴリ:情報
小林秀雄(批評家) 1902年(明治35年)4月11日 - 1983年(昭和58年)3月1日)。 東京都千代田区生まれ。長女は白洲次郎・正子夫妻の次男と夫婦。『のらくろ』の作者田河水泡は妹の夫である。 日本における近代批評の確立者。批評の対象は、文学から古典、哲学、芸術全般に及び、同時代の知識人に大きな影響を与えた。
「小林秀雄」
私たちの高校時代、この名前は「名作」や「古典」と同じ意味を持っていた。「知」の象徴であったと言ってもよいだろう。
その原因のひとつが大学入試である。「日頃から小林秀雄の文章に親しめるだけの知力を持っていることは必須」だと教えられた。
しかし、小学校時代に少年少女文学全集を何冊か読んだだけ。中学時代は本を1冊も読んだ記憶なしという高1生にとって、「小林秀雄」はあまりに手ごわい相手だった。
とにかく前に進めない。たった一行が理解できない。理解できないから読む気力も薄れてくる。何度気を取り直して挑戦しても同じ結果に行き着く。そのうちに腹が立ってくる。「なんでこんなに難しく考えなきゃいけないんだろ?」となる。
しかし、そんな悪戦苦闘の中でも、小林秀雄の文を読むと背筋が伸びるような気がしたのはなぜだろう。批評家の揺るぎない自信のようなものがのり移るのか。それとも、自分は小林秀雄を読んでいるという自負心だったのか。
二十数年ぶりで文庫本を手に取ってみた。
『無常という事』が昭和17年の作品だということを、今回初めて知った。そこに並ぶ作品群がことごとく歴史と向き合っている。昭和15年~17年という難しい時期に、最も制約から解放されて筆を進めることができるのが「歴史」だったのだろうか。
『無常という事』は、比叡山での思いがけない体験から始まる。叡山を「うろついて」いると、「突然、この(一言芳談抄の)短文が、当時の絵巻物の残欠でも見るようなふうに心に浮かび、文の節々が、まるで古びた絵の細けいな描線を辿るように心に滲みわたった」のである。
この体験を通して、小林は当時の「合理主義な」歴史観に対抗するための方策を提示しようとする。強まりつつあっただろう国粋的な歴史と唯物史観の間で、彼が模索し、人々に提示したかったのは「人と歴史の向き合い方」であった。
このテーマは、おそらく現代にいたるまで持ち越されている大きな課題であろう。時代が変わったからと言って、そう簡単に乗り越えられる課題とは思えない。
では、人と歴史の向き合い方とはどうあるべきか。
『文学と自分』の中で、小林秀雄が「わかっていただけるかどうかもわかりませんが」と前置きして学生たちに語ったのは大野道賢入道のことだった。徳川家康に憎まれ、最後は火あぶりにされてしまう道賢入道は、七転八倒するでもなく、じっと動かないまま真っ黒焦げになってしまう。
「死んだと思った入道が、ムクムクと動き出し、検視の脇差を抜いて検視の腹をグサリと貫いた。そのとたんに真っ黒な入道の身体はたちまち灰になったそうです。諸君はお笑いになりますが、ぼくは、これは本当の話だと思っています。」
小林秀雄の「孤高」とも言える人と歴史の向き合い方におそらく一般性はない。だが、「これもあり」だと私は思う。
二十数年ぶりの「小林秀雄」との再会。
やはり私は高校時代と同じように自分の背筋が伸びるのを感じた。と同時に、大きな安堵感を得ながら、今度は『本居宣長』を読んでみようと決めていた。
<社会科 金子 暁(さとる)>
「小林秀雄」
私たちの高校時代、この名前は「名作」や「古典」と同じ意味を持っていた。「知」の象徴であったと言ってもよいだろう。
その原因のひとつが大学入試である。「日頃から小林秀雄の文章に親しめるだけの知力を持っていることは必須」だと教えられた。
しかし、小学校時代に少年少女文学全集を何冊か読んだだけ。中学時代は本を1冊も読んだ記憶なしという高1生にとって、「小林秀雄」はあまりに手ごわい相手だった。
とにかく前に進めない。たった一行が理解できない。理解できないから読む気力も薄れてくる。何度気を取り直して挑戦しても同じ結果に行き着く。そのうちに腹が立ってくる。「なんでこんなに難しく考えなきゃいけないんだろ?」となる。
しかし、そんな悪戦苦闘の中でも、小林秀雄の文を読むと背筋が伸びるような気がしたのはなぜだろう。批評家の揺るぎない自信のようなものがのり移るのか。それとも、自分は小林秀雄を読んでいるという自負心だったのか。
二十数年ぶりで文庫本を手に取ってみた。
『無常という事』が昭和17年の作品だということを、今回初めて知った。そこに並ぶ作品群がことごとく歴史と向き合っている。昭和15年~17年という難しい時期に、最も制約から解放されて筆を進めることができるのが「歴史」だったのだろうか。
『無常という事』は、比叡山での思いがけない体験から始まる。叡山を「うろついて」いると、「突然、この(一言芳談抄の)短文が、当時の絵巻物の残欠でも見るようなふうに心に浮かび、文の節々が、まるで古びた絵の細けいな描線を辿るように心に滲みわたった」のである。
この体験を通して、小林は当時の「合理主義な」歴史観に対抗するための方策を提示しようとする。強まりつつあっただろう国粋的な歴史と唯物史観の間で、彼が模索し、人々に提示したかったのは「人と歴史の向き合い方」であった。
このテーマは、おそらく現代にいたるまで持ち越されている大きな課題であろう。時代が変わったからと言って、そう簡単に乗り越えられる課題とは思えない。
では、人と歴史の向き合い方とはどうあるべきか。
『文学と自分』の中で、小林秀雄が「わかっていただけるかどうかもわかりませんが」と前置きして学生たちに語ったのは大野道賢入道のことだった。徳川家康に憎まれ、最後は火あぶりにされてしまう道賢入道は、七転八倒するでもなく、じっと動かないまま真っ黒焦げになってしまう。
「死んだと思った入道が、ムクムクと動き出し、検視の脇差を抜いて検視の腹をグサリと貫いた。そのとたんに真っ黒な入道の身体はたちまち灰になったそうです。諸君はお笑いになりますが、ぼくは、これは本当の話だと思っています。」
小林秀雄の「孤高」とも言える人と歴史の向き合い方におそらく一般性はない。だが、「これもあり」だと私は思う。
二十数年ぶりの「小林秀雄」との再会。
やはり私は高校時代と同じように自分の背筋が伸びるのを感じた。と同時に、大きな安堵感を得ながら、今度は『本居宣長』を読んでみようと決めていた。
<社会科 金子 暁(さとる)>
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