2008-05-17 17:57 | カテゴリ:学園
緒方貞子(おがた さだこ)1927年、東京生まれ。聖心女子大学文学部卒業後、アメリカに留学し、ジョージタウン大学で国際関係論修士号を、カリフォルニア大学で政治学博士号を取得。学位論文がアメリカ、次いで日本で出版され(『満州事変と政策の形成過程』原書房)、高く評価された。国際基督教大学準教授(1974-79)を経て80年、上智大学教授に就任。同大学国際関係研究所所長、外国語学部長などを務めた。この間、76年に日本人女性として初の国連公使となり、特命全権公使、国連人権委員会日本政府代表を歴任。90年の国連総会において第8代国連難民高等弁務官に選出され、2000年末まで10年にわたりその重責を担った。人道分野における卓越した貢献が高く評価され、内外から数多くの勲章および名誉学位を授与された。2003年からは、独立行政法人国際協力機構理事長として、精力的な活動を続けている。



緒方貞子。笑顔がとてもかわいらしい、小さな、ふつうのおばさん。

だが、いざ紛争地に赴けば、ヘルメットをかぶり、防弾チョッキを身につけ、武装した護衛を引き連れて、勇ましい姿で最前線を歩く。

あるときには、ルワンダ問題(最近では映画の題材にもなっている)での難民保護のため、反政府勢力にあらゆる方法で国際的圧力をかけ、コソヴォ問題解決のためには、ミロシェヴィッチ大統領に直接会って、ジェノサイド(民族大虐殺)をやめなさいと言い放つのである。

ベルリンの壁の崩壊(1989年)とソ連・東欧諸国の共産主義政権の瓦解による冷戦の終焉は、長年にわたる国際的な対立に解決をもたらしたのであるが、超大国による支配の緩みは、地域紛争や内戦の急増を招くことになった。地域内における他民族との積年の対立が一気に爆発し始めたのである。そのため、緒方貞子氏が国連難民高等弁務官を務めた1991年からの10年間は、まさに難民問題と人道支援の現場にとっては「激動の10年」といえる。

私(石田)も世界60カ国以上を旅し、多民族を抱える多くの途上国等を歩いてきたが、現地の人との会話のなか、特にアフリカ、中東地域、バルカン半島などでは国籍とともに民族・部族・宗教を尋ねられることがあったが、尋ねるときの目つき、面持ちが緊張しているように感じられた。これはその場にいないとわからない感覚なのかもしれない。他民族を排除するための追放・虐殺が戦争の結果にとどまらず、むしろそれ自体が戦争の目的となっていた地域では、その緊張もしょうがないのかもしれないと思った。

この著書では、私が政治経済の授業で扱う国際紛争の、命がけの現場の雰囲気や、国連難民高等弁務官の緒方貞子氏だからこそ目撃できた光景や裏話が記されている。また、人道支援活動を紛争の真っ只中で行ったうえでのさまざまな成功と失敗が描かれており、「政治の力」「軍の力」「国際的な利害」と人道活動との複雑な絡み合いが興味深い。

各国首脳や国連幹部らとの生々しいやりとりには、現場ならではの迫力があり、その場にいるような感覚になるが、特に、私の印象に残ったのは、緒方貞子氏のその強力なリーダーシップである。その彼女がこの著書のエピローグで、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)でのビジョンを以下のように語っている。

「~意義のある組織であろうとするならば、~機敏で、手際よく仕事をこなし、効果的で、急速に変化する環境に順応できなくてはなりません。」

現場主義の彼女らしい言葉である。背筋がのびる思いがした。

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(社会科 石田剛)




紛争と難民 緒方貞子の回想紛争と難民 緒方貞子の回想
(2006/03)
緒方 貞子